オリジナルはこちら(2014/5/5)
あなたが最後に引越しをしたのは、何歳のときですか?
人は22歳から25歳をピークとする「移動期」を過ぎると、年々ひとところに落ち着いていき、例外的に再び移動が増えるのが60歳のときのようです。
(日本人の引っ越し年齢(年齢別都道府県間移動者数)より)
だからどうしたという話なのですが、私は現在、再来週に迫った「引越し準備」を進めています。
■ 常にフットワーク軽くいたい。持ち歩けないものは買わない主義
4月末から、勤務先が本社事業所から幕張事業所に変更になったのにあわせて、オフィスのある海浜幕張への通勤が楽な千葉県に引っ越すことにしたんです。
1. 引越し業者への見積もり依頼、交渉、契約。
2. 電話やインターネット環境の準備、調査、契約
3. 引越し先に持っていくモノと処分するものの整理
どれも一筋縄ではいかず「聞いて聞いて」とお伝えしたくなる話はあるのですが、今回は「3. 引越し先に持っていくモノと処分するものの整理」に絞って思ったことなどを書きます。
契約してきたからもう自分ちなんだけど、なーんにもなくてアウェー感満載。
引越し先との契約を終え、まだ何もない部屋をパチリと撮ってFacebookにアップしたところ、友人に「マンション買ったの?」と訊かれました。
それに対する答えが見出しの「常にフットワーク軽くいたいから、持ち歩けないものは買わないんだ」という言葉です。
普段からいつも意識している原則で、そうあろうと意識していることです。
でも実体は、なんてことはない、「そうありたい」という願望でしかなかったのです。
現実にはたくさんのモノを所有しているし、その所有物をいざ手放す段になると、さまざまな思いが頭をよぎって、「惜しく」なりまくりです…。
この後、実際に引越し準備進めていく中で「なんて上っ面だけの言葉を吐いていたんだろう俺は」「口で言っていることと心で思っている事が全然違うじゃないか!」何度思わされたことか。
■ 移動の自由を失うことは、魂の自由を失うこと
もうね、欺瞞の塊ですよ。いざバイク(カブ90)を手放すとなったら、まあいろいろ頭に浮かびます。
所有欲、物欲、独占欲、支配欲…
こう書くと重たいですが、やっぱり人って一度何かを「自分の所有物」にすると、やっぱりなかなか手放せなくなるものだし、それが自然なんだろうという気もしています。
「いや、やっぱり自分たちで主体的に移動できる乗り物は手元にあるべきじゃないかな」
「自転車でいい? 違う違う。チャリの移動範囲はたかが知れているし、動力が付いてないといざというときに頼りにできないでしょう」
「人権の中でも一番重要なものは移動の自由らしいぞ。移動の制限がかかると自由な魂にも制限がかかるとかなんとか」
などなど、まあいろんな理屈をつけて自分を(そして妻も)納得させて、手元に残そうとするわけです。
実際に持っていったらいったで、駐輪場をどうするかという問題が待っているんですけどね。
君とも10年の付き合いだったね、さよなら。新しいご主人とのいろは坂のツーリング、楽しんできてね。
ちょうどそんなことをウダウダと考えていたら、ある友人がFacebookに書き込んでいた言葉が目に飛び込んできました。
電車の中で空いた席に座った後、「自分の前に立たれたり横に座られたくない」という気持ちが生まれるのはなんなんだろう。
一度手にしたものは自分のもので、より良い環境を求める。一度貰ったお菓子を分け与えられない子どもを注意できるのか、既得権益にしがみつく大人をバカにできるのか。
しがみつくことがカッコ悪いという価値観を、どうしたら拡げられるだろうか。
と、こんな話です。
なんだか、自分も前に同じようなことを考えていたせいもあって、しがみついている自分のかっこ悪さが身に沁みました。
(とは言え、しがみつくことは常にかっこ悪いことじゃないとも思っています。あれもこれもといろんなものにスティッキーな様はかっこわるいですが、「これは!」というものにはとことんしがみついていくべきだとも思っています。
■ 単なるモノじゃない。アイデンティティの象徴だ
このBladeのベースギター、もう10年以上、弾くことはおろか、手に取ることもなかったんですよ。
やっぱりちょっと淋しいが…bye bye Blade、君は40肩には重過ぎるんだ。
今の住居には6年以上住んでいますが、引っ越してくるときにハードケースにしまったのを最後に、一度もケースから出したこともなかったんですから。
さっきのカブとまったく同じ話です。
いざ、引越し準備で荷物を減らそうとなると、手放すことが惜しくてたまらない…
「まったく弾いてないしもう弾けないけど、インテリアとしてもイケてるんじゃない? 」
「このベースは単なる楽器じゃなくて、自分のアイデンティティを象徴するものなんだ」
「このベースは単なる楽器じゃなくて、いろんな想いがつまったタイムカプセルなんだ」
なんか気が付いたら、ほぼ説得されてたんですよね、自分。「そうだよな。引越し業者さんに頼んだトラックに入りきらなければ、電車で自分で運べばいいんだし」とかなんとか。
でも、その前に、せっかくだからちょっとだけ弾いてみようと思ったんですよ。
いや、もう全然指が動かないことは分かっていたんですが、ストラップも付けたままでケースに入れていたんで、肩にかけてみようと思ったんです。
Bladeを持ちあげ、持ち、持ち……メッチャ重い。
何とかストラップを肩にかけましたが、こんな重たかったっけ? 俺は昔こんな重たいベースをずっと持っていたんだろうか?
実はもう一本、スティングレイというベースもあって、そちらも肩にかけてみました。
あら軽い。あらしっくり。それになんだかいろんな思い出が蘇ってきました。指はやっぱり全然動かなかったけど。
ともあれ、改めて2本を手にして分かったことは、自分がスティングレイには深い想い入れがあったけど、Bladeには特段何も感じていないってこと。
そして将来、またベースを弾くことがあるとしても、こんな重たいベース肩にかけてられないし、外を持ち歩くなんて想像できないってことです。
コラムニストの小田嶋隆さんが、以下のような文章をどこかに書かれていました。
オッサンの記憶には「思い出補正」がかかっていて、そこで美化された脳内記憶に勝るものなど現実世界にはどこにもない。それは運命なのだ。
思い出補正はそれはそれで意味があることだと思うけど、引越しという「メランコリックになりやすい状況」や、「目の前の面倒な作業から逃げ出したくなる心持ち」のときには、かなり深めに自分の気持ちを問いただした方が良さそうだな、と改めて思いました。
さ、連休も今日含めて残り2日。
本やCD、洋服の仕分けを終わらせないとな。
あ、向こうから妻の声が聞こえる。「このジーンズもう捨てていいでしょ? もう太っちゃって入らないだろうし」
「いや、それにはバンクーバーで暮らしてた思い出がつまってるし、引っ越して落ち着いたらまたスポーツクラブに通うから、きっとウエストも入るようになるよ。捨てずに取ってお…」
Happy Collaboration!