オリジナルはこちら(2014/11/17)
コミュニティーとはリソースが共有される場である。
リソースが尽きたとき、コミュニティーに終わりがやってくる。
先週、EGMフォーラムの定例会があり、こんなことを話してきました。
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ご利用は計画的に
コミュニティーとはリソースが共有される場である。
最近、私が「コミュニティーの正体」ではないかと思っていることです。
「リソース」という言葉にすると、なんだか温もりのない、人間味のない言葉に感じる人がきっと多いんだろうなと思っているのですが、どうでしょう?
オンライン辞書的なものでちゃちゃっと調べると、だいたいこんな感じの説明のようです:
目的の遂行に必要なもの。
人手や物資、資金や設備など。
…なんだか「ご利用は計画的に」って感じ…?
やっぱり私がイメージしている「リソース」よりも、ハード寄りというか、目に見えるもの手に取れるもの、「現物」感の強いイメージみたいです。
でも、「コミュニティーとはリソースが共有される場である」という言葉で私が言いたい「リソース」は、これらの「ハード的」なものプラス「ソフト的」な要素も含んでいます。
いや、含んでいるというよりも、むしろそちらの方がメインかもしれません。
人の感情に訴える、目には見えないけどそこにあるもの。精神的な満足を与え、心理的に豊かさを感じさせてくれるものも含めて「リソース」じゃないかと思っています。
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カネ、コネ、名声、安心感、ぬくぬく感、ワクワク感…
リソースが尽きたとき、コミュニティーに終わりがやってくる。
リソースが消費されるばかりで生み出されることがないコミュニティーは、リソースが喰い尽くされたところで消滅します。
参加者(メンバー)が手に入れようとしているものは人それぞれで違っていたとしても、そこにあるリソースが底をつけばおしまい、ハイそれまでよ、です。
カネ、コネ、名声、安心感、ぬくぬく感、ワクワク感…
コミュニティーのリソースが、油田のように埋蔵量に底があるものなら、スピードに差こそあれ終わりはやって来ます。
一方で、コミュニティーが例えば太陽光パネルのように、それ自身でリソースを生みだすことができれば、状況によってリソースが減ることがあっても、枯渇することはないでしょう。
むしろ、リソースの量や種類が雪だるま的にどんどん増えていき、コミュニティーの価値が増してたくさんの人を集めたり、元からいる人たちの関与を強めていくこともあることでしょう。
ここでポイントになるのが、そのコミュニティーが持つ「リソースの量や種類や価値」です。
増えたリソースの量や種類が、カネ・名声系のものばかりだと、消費されるのも早く、再生産も簡単ではないですよね。
一方で、メンバー間のコミュニケーションやコラボレーションで生み出される目に見えないけどそこにある「ワクワク感」のようなリソースであれば、これは簡単には消費されたり消え去ったりはしないものです。
どんなリソースに魅力を感じるかは人それぞれですし、そもそも何を求めてそのコミュニティーに参加するのか、しているのかも十人十色です。
しかし、ハード的なものとソフト的なものの両面を持っていて、それらが入り乱れ絡みあっているコミュニティーの方が魅力的だと感じる人が増えているのではないでしょうか。
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リソース・コンシューマーからリソース・プロシューマーへ
消したくない場を持続可能な場にする方法。
ある程度同じようなリソースに惹かれる人たちが集まるのは、コミュニティーの特性だと思います。
物理的、あるいは心理的なセーフティーネット役割を強く求める人たちが集まっているコミュニティーもあれば、チャレンジや競争を楽しむ人たちばかりというコミュニティーがあるのも当然でしょう。
(なお、分人的な観点から見れば、1人の人が相反するものを同時に求めるのも当然です。ですから1人の人がまったくタイプが異なる複数のコミュニティーに所属しているのも
、行動がコミュニティーごとに変わってくるのも何一つ不思議ではありません。)
油田か太陽光パネルか…。コミュニティーのリソースを枯らさず、増やしたり輝かせたりする活動って、いったいなんでしょうね?
それは、コミュニティーそれぞれで違うところと共通するところがあるような気がします。
これを紐解いていくことが、自分が「ここにいたい」と思える、自分の仲間が「ここにいたい」と思ってくれるコミュニティーへの王道なんじゃないかなぁと思うのです。
コミュニティー・ビルディングにおける、ミッションやビジョンを言語化するとか、儀式やルールを作っていくというのは、それらを紐解くための準備やプロセスなんじゃないでしょうか。
結果的であれ狙いであれ、自分たちがどんなタイプのリソースを持っていて、それがどう活用されているのか、あるいは活用されていないのか。そのリソースを増加させたり再生したりする「太陽光パネル」がなにであるのか。
さらには、リソースに集まる/リソースが集める人たちと、どのような関係性を深めていきたいのかを、コミュニティーの中心にいる人たちがときどき棚卸ししていくのが良い気がします。
自分のコミュニティーへの関わり方を見つめることは、自分がどんな世界でどんな自分でありたいのかを考えるということと同じですね。
主体的にどう関わるのか、関わらないのか。
…「当たり前すぎて今さら誰も書かないこと」「具体性に乏しく役に立たないこと」をつらつらと書いてきたような気もしますが、最後にまだゆるゆるな仮説を書いて終わりにします。
コミュニティー内の活動には、「マイナスをゼロにする活動」と「ゼロをプラスにする活動」があるんじゃないでしょうか。
違う言い方をすると、「それがあることで立ち去ろうと思わせない活動やリソース」と、「それがあることで積極的にコミットしようと思わせる活動やリソース」があるのだろうということです。
コミュニティー内の活動を、モチベーション理論における「ハーツバーグの二要因理論」のように「動機付け要因」と「衛生要因」に分けて考えていくと、コミュニティーがそのときどきで何を必要としているのか、何が足りていないのかに見当がつけられそうな気がします。
説明不足かとは思いますが、今回はここまでにします。
「ハーツバーグの二要因理論」がどんなものかは、この『仕事の満足感はどこから生まれるか:プレジデント(プレジデント社)』が分かりやすいかと思いますので、興味のある方は見てみてください。
Happy Collaboration!