オリジナルはこちら(2015/6/21)
父親が死んだ直後から、物心両面のさまざまをブログに書いておけば、後々自分たちに役立つんじゃないか、意味あるものになるんじゃないかと思っていました。
でも書き始めると、どこかメランコリーな感が強すぎたり、なんとなくクール過ぎる気がしたりして「やっぱり止めよう」となっていました(より正確には、一度かなりの分量をiPhoneで書いたのですが、ちょうどデータを吸い出す間もなく壊れて(壊して)しまったのです。…その話はまた別の機会にでも。)
でも、なんだか心に引っかかっていて。
そして今朝、最悪の夢で目が覚めて。
これはきっと文章にして一度アウトプットしきることで、なにかまた違う視点で見えてきたり捉えられることがあるのかもしれないって気がするので、書きかけでもなんでも一度アップしておこうと思います。
いつかまた、こんなよくわからない感情を持つ日が来るのかもしれないし。いつか誰か、読んでよかったと思う人がいるかもしれないし。
■危篤の連絡と迷子
「もう30分も持ちそうもありません」という連絡は、いろいろな理由から俺のところだけに来ました。その後、親兄弟に連絡がつけれず、その情報を知っているのは自分だけ(もちろん、実際には医師をはじめ関係している人たちは知っているのだが)だと思うと、なんだか自分が親父の命を預かっているような感じで、ひどく心細かったです。
妻と電話がつながったとき、感情がブワッと出てきたのは、悲しみからではなくて安堵感からだったんだと思います。迷子の子どもが親に会えたときに泣き出す、そんな感じだった気がします。
■儀式挨拶とモノ
葬儀をはじめとした儀式では、お袋に代わって何度か挨拶をする場面がありました。
元々型通りの挨拶を型通りにしようという気はなかったので、なにかを暗記しなきゃいけないというようなプレッシャーは感じておらず、参列いただいた方たちに感謝の気持ちを伝えればよいと思っていたのですが、焼き場で骨を骨壺へ収め終えた後の挨拶では、最初の数言のあと言葉が出てこなくなりました。
「悲しみ」というよりも、ヒトがモノになる物質的な変化(もちろん焼く前からすでにモノ化しているわけですが)のギャップの大きさを改めて感じたことと、その場にいた人たちの強い想いに押し流されそうになったのかなぁって思ってます。
■葬儀と金
人が死ぬとやっぱりお金がかかります。
最近では、節約した葬儀のやり方もいろいろ出てきていますが、それでも「お坊さんを呼ぶ」という部分の費用については、かなりブラックボックス化されていました。
葬儀屋さんに「相場とかあるんですよね。いくらぐらいだと思っていればいいのでしょうか?」と聞いても答えられないとの事でした。
式の段取りでお坊さんに電話した際、「おいくらほど用意させていただければよろしいでしょうか?」と聞く際には、けっこうドキドキでした。「百万円です」って言われたらどうしよう?! って。
実際にいくらだったかは…んー、どうしよう。でもここで止めたらきっとみんな気になりますよね。
「葬式での読経」「焼き場での読経」「納骨の際の読経」、以上3件まとめて14万円でした(通夜は行いませんでした)。
■借金と相続
うちは昔からお金のない家だったし、今も変わりません。
親父が死んである意味最大の不安だったのは、「俺の知らない借金があるんじゃないか」ということです。
そして相続に関して今回本などを読んでわかったのは、例えば本人宛てに届いた請求書への支払いをしたり、銀行に残された預金を引き出したりしてしまうと、それが「借金などの負の部分も含めて残されたモノを相続する」という意思表示として取り扱われてしまうということでした。
それを知ってから、これまで支払いも引き出しも止めている状態です。
でもどうやら、借金は残っていないようです。
まだ死後1カ月ほどなので、この後どこかから出てくるのじゃないかという不安が完全には消えることはないのですが、いつまでも止めておけるものでもないですよね。
そろそろ腹を決めて、いろいろと整理をしていこうと思います。
親父は保険にはほとんど入っていませんでした。おそらく数年前に入院した際、後期高齢者医療制度のおかげで本人負担額の上限額が月44,000円と大きくないことを実感し、任意保険を解約したか継続しなかったかしたんだと思います。
でも、今回残されたお袋は、けっこうな額の保険料を毎月支払っています。同じく後期高齢者医療制度の対象年齢に入っていることを考えると、分不相応な気が…。
というわけで、保険の見直しを一緒に考えようと思っています。
親父、心配無用です。
もう今朝の夢見たいなのは勘弁してください。安らかに。