Pachi's Blog Annex ~自薦&自選よりぬき~

『Pachi -the Collaboration Energizer-』の中から自分でも気に入っているエントリーを厳選してお届けします♪

いつか宇宙に吸い込まれたりしないかしら? | ありがとうおふくろ

オリジナルはこちら


先週、おふくろが亡くなりました。

「調子がかなり悪くなっているらしい。今週か来週顔を見に行こう。ひょっとしたらこれが意識があるうちの最後の顔合わせになるかも?」という話をお姉ちゃんとして、「じゃあ明日、施設に電話して弘前行きの日程決めよう」なんて話をしたのが先週の月曜、9月7日の夜でした。

翌朝8日の8時過ぎに、叔父から「残念だけど…」と電話をもらいました。

 

 

無念。

…なんだけど、思っていたほどひどく打ちひしがれる感じではないです。その日から2〜3日はやっぱり悲しくて悲してく、ちょっとしたきっかけでおふくろのことを思い出し涙が出てきていたんだけれど、今はかなり冷静に思い出せるようになりました。

まだ思い出す内容によっては涙が出てくることもあるけど、むしろ「悲しい」という気持ちより「ありがとう」という気持ちの方が前に出てきます。おかげで思い出すと、笑顔になることが多くなってきたんじゃないかな。

 

 

 

おふくろは、お金と酒にはちょっとだらしないところのある時代もあったけど、それで誰かに大きな迷惑をかけることはなかったと思います。…いや、数年に1回くらいはあったかも? ww

でもそれを補って余りあるくらい笑顔(それも大爆笑の)や優しい気持ちや、なにか大切なものを与えてくれる人でした。

 

 

おれは本当にたくさんおふくろから貰いました。それはもう本当にたくさん。たくさんの宝物を。

これは多分、おれやかみさん、お姉ちゃん夫婦、そして親類やこれまでに出会ってきたたくさんの人も同じなんじゃないかな? 息子として、すごく誇らしいです。

おれもおふくろのように与えられる人になりたいです。タイプは相当違うけれども。

 

 

 

今回、おふくろの元に着いた8日から、簡易な葬儀を済ませた11日まで、お姉ちゃんと話をする時間がいっぱいありお互いが思い出したことをいろいろと伝えあいました。

その中からいくつか「そう言えば…!」と思ったことがあったので、ここに書いておきます。

 

おれが小学生低学年のとき、2度ほど「おれの知らない人」が家に数泊していくことがありました。誰なのかを両親に尋ねると、昔住んでいた街のご近所さんとのこと。

当時、うちは狭い団地に3〜4人暮らし(親父は同居している時期と別居している時期があった)で、決してスペースに余裕があった訳ではなかったし、お金もどうにかこうにかやりくりして暮らしていたけれど、「知らない人」にはお客様用の布団に寝てもらい、食事を提供して一緒に食卓を囲んでいた。

…と、ここまではおれも覚えていました。でも、お姉ちゃんに聞いて知ったのは、その人の「お金を貸して欲しい」というお願いに、おふくろがきっぱり「No」と答えていたらしいこと。

 

「食事も寝床も少しくらい融通してあげられるけど、お金は貸せません」。
— 貸せる現金が手元になかっただけかもしれないけど、それでも「そこはしっかりしているんだな」とお姉ちゃんは感心したって。

おれもその話を聞いて感心した。そして「数年の近所付き合い」であっても、そこまで大事にできることにも感心しました。時代が違うとはいえ、そこまで縁を大事にできていないな。

 

 

同じ頃、おふくろとお姉ちゃんと3人で、近所の犢橋貝塚公園で一晩中流れ星を見ながら過ごしたことがありました。多分、これも数回あった気がする。外で一晩過ごせる時期に「なんとか流星群」が来ると行ってたのかな?

ゴザひいて、タオルケット持って(おれが子どもの頃は「ブランケット」なんておしゃれなものは無かったのよ)、枕持って、ゴロッと芝生の上に横になって、一晩中流れ星を探してはお願いする。いろいろおしゃべりしながら。

「眠くならないように」って、ポットにコーヒーを入れて持って行った気がする。おれはたいてい夜中にうつらうつらして、明け方明るくなるまで起きていたことはなかったかも。はて、おれは何をお願いしていたのだろう?

 

お姉ちゃんによると、おふくろは星空を眺めながら「宇宙って不思議よね。難しいことは分からないけど、こうやって見てたら、いつか宇宙に吸い込まれたりしないかしら?」みたいなことを目をキラキラさせながら言っていたらしいです。

そういう人でした。

 

おふくろにはおもしろおかしい話も一杯あって。

プロボクサーと付き合ってたけど、減量が始まるとデートでも水しか飲まないのでつまらなかったって話。

トルコ風呂がどんなところか知りたくてお店に行き、初の女性客として驚かれたけど、すっかり働いている人と仲良くなった話。

他にも、なかなかここには書きづらい話もあるな。

 

 

それから超本気でどやしつけられたことも何度かあった。小さな頃1度、馬乗りになって叩かれたこともあったっけ。

あれはおれが外で、xxxxxにマッチで火を付けて遊んでたとき。どこで話を聞いたのか、それともたまたま通りがかったのか、その姿を見つけると吹っ飛んできて、馬乗りになって火遊びがどれだけ危ないことか、人の命を奪う可能性があるかを大声で聞かされた。そしてふてくされて黙るおれが「もう2度としません」と言うまで両手を強く押さえつけられた。

これはずいぶんと昔に書いたろくな大人と同じ頃だったのかな? それよりもう数年前だったか…?

 

 

ちょうど20年前、おれはかみさん(ってまだ結婚はしていなかったけど)とワーキングホリデーでバンクーバーに行きそこで1年暮らし、日本に帰る前にひと月ほどかけてアメリカをぐるっと旅行してた。帰国まで残り10日ほどになった頃、お姉ちゃんからメールが届き、そこにはおふくろが脳溢血で倒れて助かるかどうかは分からないと書かれていた。

あのとき、おれはものすごく(多分、今回以上に)大泣きして、いろいろ考えたけれど結局日本には帰らず、そのままアメリカ旅行の残りを楽しむことにした。

理由は…いくつかのことが複雑に絡まっていてうまく言語化できないけれど、簡単に言えば「急いで帰ることで何か変わるものがあるとしたら、それはおれの気持ちだけだ」とそのとき思ったから。それに嘆き悲しみに暮れるのであれば、かみさんしか周りにいないアメリカの方がいいと、そのときのおれは思ったんだよね…。

結局旅行を続けてそれなりに楽しみながら、嫌な知らせが届いていないことを祈りながら宿に帰ってeメールを開いていた。あの頃、海外でもやりとりできるケータイなんてなかったからね。

 

 

あのとき一度、おふくろの死を決定的に覚悟して過ごしたことが、今回、自分でも意外なほど素直な気持ちでそれを受け入れられていることにつながっているのかなって思う。

おれの人生をおもしろくしてくれてありがとうおふくろ。これからもニコニコしながら思い出すね。ありがとう!!

 

Happy Collaboration!

賛成か反対か。○かxか | 原則ですか個々も含みますか

オリジナルはこちら


「夫婦であっても同棲中でも、家事は男女が半々やるべきだ」
— 賛成か反対か。○かxかで示してください。

特定の事柄に「まるばつ」で意思表示する機会や、それをしているものを目にする機会がここのところ続きました。

きっと、これを読んでいる人の中にも、Choose Life Projectさんのちょっと前の都知事選候補まるばつ表を最近目にした人も少なくないんじゃなかな?

 

おれの場合は、それ以外に参加したオンラインでのイベントやワークショップで、「問いかけに次々とジェスチャーで答えてもらう」という経験がここのところ続きました。

  • 「マスク着用は義務化した方がよい。○かxか」
  • 「アルコールは18歳からOKとする。賛成か反対か」
  • 「学校の制服は廃止すべきだ。賛成か反対か」
  • 「医療用マリファナは合法化すべきだ。○かxか」

— と、こんな質問に参加者がジェスチャーで答えていく。問題は意見の割れやすいものが多かったかも?

 

ここで、今回書きたいことのポイントを先に出しておきます。

なお、これはおれの仮説(あるいは「思い込み」)に過ぎないものかもしれません。

  1.  人は、自分の意見が周囲の人びとと大きく異なると、居心地が悪くなる。
  2.  人は、微妙な問題に結論しか提示できないと、もどかしい気持ちになる。
  3. 人は、微妙な問題を問われると、その捉え方について確認したくなる。

 

■ 人は、自分の意見が周囲の人びとと大きく異なると、居心地が悪くなる

自分の答えが少数派であることが数回連続すると「おやっ!?」となるもので、場合によっては不安が募ってくることもあるでしょう。

人によっては「後出し」 — 周囲をキョロキョロしてちょっと遅れ気味に答える人 — 気味になっちゃったり。最初からそうやって周囲の答えばかりを気にする人もいるかな?

あるいは、結果が出てから「僕は最初からそうだろうと思ってましたよ」みたいな後出しを言いだす人も…って、これは今回のとは違う話なので取り上げません。

 

意見が異なること自体には良いも悪いもないですよね。むしろ、多様性が担保されている場なら意見が異なることの方が自然とも。

とはいえ、これがオンラインの場ではなく、リアルの場だったらどうでしょうか? そしてテンション高めで興奮気味の人が多い状況なら…恐怖を感じる人も少なからずいるかもしれません。

 

ある選択肢を多数が選択している現象が、その選択肢を選択する者を更に増大させる「バンドワゴン効果」というものがあります。またつい周りに合わせてしまう「多数派同調バイアス」というのもあります。

「場の意見」が本当にみんなの意見なのか。あなたの意見は本当にあなたの意見なのか。場作りをしている人も、その場に参加している人も、それを意識してみることがけっこう重要な気がします。

 

■ 人は、微妙な問題に結論しか提示できないと、もどかしい気持ちになる

次々と質問されていく中で、明らかになっていくあなたとみんなとの違い。なぜ自分がその意見に賛成なのか、あるいはなぜxを選んだのか。その理由や背景などをみんなに知って欲しくなってきませんか?
— とりわけ、「みんな」の中に、自分にとって大切な人だったり特別な人がいるときは。

 

これってとても自然なことだと思うのです。そしてそういう場に身を置き、人と自分が違うということ、違うということを確認・認知すること、そして違っていて良いということを感じられることって、とても重要だと思うのです。

そしてその重要さは、理屈以上に奥深いところまで届くものじゃないだろうかという気がしています。

 

これまでなんとなく「まるバツ式」「Yes/No式」の質問はあまりよくないもの、発展性がないので積極的にはしない方がいいものとして捉えてきたけど、今後はもっと場作りに活かしていこうって思いました。ポイントはその使い方。「発したい気持ち」を強めるために使えば良い。多数決はイカさないけど、「決」のためじゃない使い方もある。

ちょっと前にも似たことを感じたことがあって、そのときは読み物として問いかけてみました。

何がわたしの責任で、何が国家の責任?

 

■ 人は、微妙な問題を問われると、その捉え方について確認したくなる

「その問いはあくまでも原則に関してであって、実際のルールを運用する場面はより状況に即して変化できるという前提ですか?」
「原則だけではなく、個々の事情や状況においても適用させるべきものとしての問いですか?」
— 答える前に、これを確認したくなる場面がたくさんありませんか? おれはあります。

 

特に「家事は男女が半々やるべきだ」みたいな質問。

問いの背景には「男女平等」があり、それについては大賛成なので原則○なのですが、一方で「我が家の場合は明らかに得手不得手と好き嫌いがあり、双方納得の上で100パー妻に依存している」状態だったりします。

そういう「原則○を前提に、個々の家庭で運用を決めたほうが良い」みたいな回答が、おれの場合はいっぱいあるんです。

そしておそらく、これがいっぱいあるのはおれだけじゃなくて、日本の人たちみんなもいっぱいあるんじゃないかな。いや、世界中のみんなもいっぱいあるんだと思うのです。

 

それなのに、おそらくおれが大好きなデンマークをはじめとした北欧や、民主主義がしっかりと根付いている国では、きっとみんな「確認の問い(それは原則ですか個々も含む問いですか?)」をそんなにしたくならないんじゃないかな?

だって、「原則は原則。運用が個々であることは当たり前。いちいち確認するまでもない。」という前提が浸透しているだろうから。

つまり、問われているのは原則であり、そこから先は関係者が自分たちに合わせてみんなで調整すればいいという、「民主主義とはDIYである」という形が身についているから。

 

いくつかの仮説(あるいは思い込み)をここまで書いてきましたが、いかがでしょうか。

これらを基に、みんなが意見を表出したくなる場を作ったり、そうやって出てきた多様な意見が活かされる環境を大切にしていこうって思っています。

#混ぜなきゃ危険

Happy Collaboration!

読書メモ『ファンをはぐくみ事業を成長させる 「コミュニティ」づくりの教科書』

オリジナルはこちら

 

ちょっと前に郵便ポストに「ファンをはぐくみ事業を成長させる 「コミュニティ」づくりの教科書」が入っていて「あれ?」と思っていたら、最後の方にアンケート回答サンクスコーナーに自分の名前を見つけました。そうだった、数カ月前にアンケートに答えていたことをすっかり忘れていました。


藤田さん、あずさん、ありがとうございます!

すでにたくさんの人が書評を書かれていますね。いかに、コミュニティへの関心が高まっているかを感じます。

いくつか読んだ書評の中で、包括的に内容が捉えていて一番全体感が分かるのは、本の中にも登場するソーシャルカンパニーの市川さんのnote [書評]コミュニティ運営する(しようとする)人待望の一冊〜『「コミュニティ」づくりの教科書』 かなという気が個人的にはしました(← なんか偉そうだな、おれ。)。

 

ここからは少し内容について書きます。

タイトルに「教科書」とあるように、まさに教科書的にコミュニティ周りのことが網羅された内容となっています。

守破離」という言葉がありますよね。

  • : 師の流儀、王道の型を習い、既存の型を『守る』こと。
  • : 師の流儀、王道の型を極めるのと同時に、他の型も研究し試すこと。既存の型を『破る』こと。
  • : 研究を集大成し、自分の型を編み出すこと。既存の型やアプローチから『離れる』こと。

コミュニティの周辺にあるさまざまな事象のうち、コミュニティ・マネージャー、あるいはコミュニティ・スポンサーやコミュニティ・リーダーたちが知っておくべき(そして対処できるようになるべき)ことがらがしっかりと書かれていて、コミュニティにおける「守と破」が揃っていると思いました。

そして特に、今この状況の中、オンラインでのイベント開催について多くのページを割いてポイントを伝えてくれているのはとてもありがたいです。「この部分を手元に置いておきたい!」って人もいるんじゃないかな。

 

そしてタイトルからもう一つ。

「ファンをはぐくみ事業を成長させる」とあるように、ここで語られるコミュニティはビジネスコミュニティです。

「ビジネス…じゃあ関係ないや」と捉えてしまう方もいそうですが…ちょっと待って!

読んでいて、どんなコミュニティにおいても重要な要素である「コミュニティ・マインド」にとても気を配りながら書かれているなってことを随所に感じました。コミュニティを語る上で一番大事なところだと思っているのですごく共感。「分かってるじゃん!」って感じです(← だから偉そうだなおれ)。

そんな風に読み進めていくと、本の終盤にずばり「コミュニティ思考」という章が立てられていました。そしてコミュニティ・マインドが、なぜ今、そしてこれから重要なのかがしっかりと解説されていました。分かってるじゃん!(← 偉そう過ぎる何様のつもりおれww)。

 

ただ不満もあって。

「オンラインでのイベント開催と同じレベルで」までは要求しないけれど、もう少し「イベント以外」、つまりコミュニティの「平時のコミュニケーション」という部分が、もう少し語られても良いのではないか? と感じました。コミュニティー・メンバーのオンライン・コミュニケーションの部分です。

コミュニティに「ハレとケ」はつきものですが、イベントという「ハレ」はいろんなバリエーションをカラフルに紹介しているのに対し、ケがあまりにモノトーンというか…。

 

あずさんと藤田さんという、お二人の魅力と強みがたっぷり感じられるところにフォーカスすることこそがこの本の差別化なのだろうとも思うので、理解はできるのですが。でも「教科書」であれば、著者に市川さんを加えてそこまで踏み込んでもよかったのかも? なんて。

イベント自体をオンラインコンテンツ化していくことは間違いなくコミュニティのカルチャー形成に大きな影響を与えますが、平時におけるオンライン・コミュニケーションはその土台となるものじゃないかな? って。コミュニティーに興味を持った人が常連への道を歩むかどうかって、そこで決まることも多いんじゃないかな? って。

そんな風におれは思っています。

 

ところで、いくつか目にした書評であまり触れられていないように思えたのが、個人的に一番おもしろかった『4章 コミュニティの危機を乗り越える』の最後の『「ピンチ!」の乗り越え方』です。

ビジネスコミュニティならではの危機が、ピンチ1〜5としてしっかり取り上げられています。

  • ピンチ1: 理解のある上司が異動する
  • ピンチ2: 組織体制の刷新で社内応援団が不在に
  • ピンチ3: 業績悪化でコミュニティ活動が続けられなくなる
  • ピンチ4: コミュニティ運営者の退職や異動
  • ピンチ5: 事業の縮小や撤退に伴うコミュニティの解散

 

めっちゃ「それな!」で、数年前、がっつりビジネスコミュニティを運営していた頃のことをいろいろと思い出しました。

この本が3年くらい前に出ていて、ここに書かれている対処法をしっかり理解していたら、自分の行動ももう少し違ったものになっていたかも…? な〜んてことも思ったり。

対処法は…ぜひ本を手にとって読んでみてください!

 

それから巻末の「イベントを盛り上げる神ワザ101」。右開きの本で横書きで、なのにページは左から右へ流れるという不思議さ…。初めて出会いました。これってある種の「暴挙」だと思うんだけど、きっと意識的だと思うんですよね。何か狙いがあるのかな? めっちゃ気になるので今度聞いてみよう!

 

そうそう。最後にもう一つだけ。

「ビジネスコミュニティ」の中で、さらにエンジニアや開発者にフォーカスしたコミュニティについて学びたければ、『DevRel エンジニアフレンドリーになるための3C』をオススメします。

関係性の結び方や強み方に関しては、テクノロジーデベロッパーならではの部分もありますが、プロセスやフレームワーク、そしてKPIの設定の仕方にはそれ以外のコミュニティにも参考になる部分がたっぷりだと思います。

ある程度の経験を持つコミュニティ・マネージャーやリーダーで、守破離の「破」を意識している人には、もしかしたらこちらの方が学びどころが多いかもしれないですね。

 

Happy Collaboration!

 

 

『SDGsが生み出す未来のビジネス』で広義のマーケティングへ(読書メモ)


SDGs関連の本はこれまで数冊読んでいますが、この本『SDGsが生み出す未来のビジネス』の特徴は「日本のビジネス」という視座にこだわっているところかと思います。

買う気満々でしたが、ありがたいことに献本いただきました。

 

この本の大きな流れは、まずSDGsの17のゴールと169のターゲットの確認、そしてSDGsのもう一つの切り口である「5つのP」*1の再整理、その後マーケティングの王道フレームワークマーケティング4P」との新結合による20のマトリクス「SDGs Marketing Matrix」*2の提唱と事例紹介と進んでいきます。

*1 SDGsのもう一つの切り口「5つのP」

*2 SDGs Marketing Matrix

読み進みながら感じたのは、「マクロ視点とミクロ視点の切り替えと融合」の重要さです。

本そのものの大まかな構成は先に書いた通りですが、実際に読み進めていく中でも何度となく繰り返しマクロとミクロの視点を行き来することとなります。

 

例えば、この本では多数の企業や組織のユースケースが紹介されていますが、マーケターは漠然と読むのではなく、個別の事例をSDGs Marketing Matrixのどの部分におけるアクションなのかを表に照らし合わせて認知していくことが重要だと思われます。

なぜなら、脳内で「点を面にプロットする」ことで、情報と知識を現実世界に適用させやすくするからです。そう考えると、本とは別にオンラインでも提供されているマトリクスの図を印刷しておき、手元に起きながら読み進めるのがいいかもしれません。

 

また、先ほど「マクロ視点とミクロ視点の切り替えと融合が重要」と書きましたが、これはこの本が取り扱っているのがSDGsであることにも起因しています。

SDGsは、本質的には切り離せない深い関連性を持つ社会課題群を、戦略的に17のゴールに切り離しています。それは、感性や情緒だけに訴えるのではなく、あえてロジカルに分類しそれを再構築することで、既存ビジネスや政治の世界に切り込みやすくするためです(少なくとも、私はそう理解しています)。

その点を踏まえ、分断された知識として終わらせてしまわないよう、脳内プロット作業により包摂的な捉え方をすることが重要だと考えらます。

 

そしてまた、新規事業開発や社会的責任に対する取り組みを実施する立場にある人や部署にとっては、全体戦略の見直しや拡大、あるいは絞り込みを考える際にもこのマトリクスの縦軸と横軸で見ていくのが良いのではないでしょう。

例えばMatrixで「プライスとプラネット」が交差するポイントである2Bに強みを持つビジネスがあるのであれば、「公正で透明性の高い価格」という価格のグッドポイントを、ピープルやピース、パートナーシップに広げるマーケティング施策を考えてみる。あるいは軸を逆にし「自然環境に対してフェアな仕入れ」という地球のグッドポイントを「環境に負荷をかけない」プレイスメントや、「資源の無駄につながらない」プロモーションも加えて伝えることができないかを考えてみる、といった具合に。

そうした実践的な使い方をされてこそ、この本は本当の価値を発揮するのかもしれません。

 

環境と社会と人間中心のマーケティング3.0は、伝統的なマスマーケティングとワンツーワンマーケティングのすべてを上書きしたわけではありません。依然としてマーケティング1.0や2.0が主流の市場や顧客も存在しています。

それでも、1から2へ、そして2から3へと、顧客も市場も成熟していきます。

著者も書いているとおり、プロモーション(宣伝、広告)はマーケティングの一部に過ぎません。SDGs Marketing Matrixの活用は、狭義のマーケティングに囚われているマーケターを、広義のマーケティングへと飛び立たせるツールであるとも言えそうです。

 


 

と、ここまでは(おれにしては)ロジカルにマーケティング視点で書きましたが、ここからは感性寄りで。

おれがこの本の中で一番惹かれたのは、SDGsの17のゴールを描いたオリジナルのカードです。これがすばらしい!!

というわけで、ここからは特に気にいったカードを紹介します。

 

カード1 | 貧困をなくそう | NO POVERTY

日本で相対的貧困状態の17歳以下は14%

後ろに見えるビジネスパーソンたちの足元にうずくまるような、崩れているPのフォルム…。

相対的貧困状態も孤独も、遠いどこかで知らない誰かが生み出しているものなのでしょうか。

 

カード4 | 質の高い教育をみんなに | QUALITY EDUCATION

登校しても教室に入れないなど不登校傾向にある(中学)生徒を加えると、その数は約43万人

デスクで勉強する子どもの足元に映る鏡像には、白いシャツをミシンで縫う姿…。

ファッションの世界だけではないですが、「超お得」の背景には、子どもの奴隷労働が関わっていることも。先日観た映画『The Price of Free』には衝撃を受けました(Youtubeにて現在無料公開されています)。

 

カード5 | ジェンダー平等を実現しよう | GENDER EQUALITY

世界の女性管理職比率は27%。日本は12%で、女性活躍推進法が目標とする30%には遠く及ばず

女性のマリオネットの紐の先にあるのは女性のマニピュレーターの5本の指…。

女性を不利な立場に留めてしまう「グラスシーリング(ガラスの天井)」という言葉がありますが、それを強固なものとしているのは男性ばかりではなさそうです。

 


 

最後に、本の中から気に入ったフレーズをいくつか紹介して終わりにします。

 

■ 社会課題を解決しなければ、地球システムを維持できないことは明らかです。もはや経済やビジネス以前の話なのです(…)頭ではわかっている。そういう方が大多数でしょう。それでも行動できないのはどうしてでしょうか。その理由の1つは、実際に社会課題をどのように自社のビジネスに結びつけたらよいのか、その方法を見つけづらく、それゆえに難しいと受けとめられているからかもしれません。

 

■ 課題にコミットしている企業を応援したくて、モノやサービスを買う若者が増えているのです。それは、応援したくない企業のモノやサービスを買おうとはしない、ということでもあります(…)多くの外食産業がプラスチック製ストローを廃止している動きも、こうした視点から見てみるとより納得しやすくなるのではないでしょうか。ストローを紙製に替えるだけでは、廃棄プラスチックの問題は解決できないかもしれません。それを承知のうえだとしても、そうしなければ顧客が離れていく可能性があるのです

 

■ 多くの企業の理念には、社会的大義が盛り込まれています。それを社内だけに留めず、顧客をはじめとする関係者との共有価値、いわばパーパスにすることが大切としているのです。モノの価値を伝えるだけでなく、パーパスを顧客との共有価値、つまり一方的に伝えるのではなく、共感してもらえる価値にすることが、マーケティングの重要な役割になってきたのです。

 

Happy Collaboration!

 

私訳 | テクノロジーに纒わされた覆いを現実から剥ぎ取るアート

オリジナルはこちら

「おお、これはいいぞ! おもしろいし、実際に使ってみたい作品ばかり。」

そんなふうに感じるアーティストのTEDトークに出会いました。

Art that reveals how technology frames reality by Jiabao Li

 

まだ日本語訳が提供されていないのですが、多くの人に知ってもらいたいと思ったので私訳しました。ぜひ一度見てみてください。

 

I’m an artist and an engineer. And lately, I’ve been thinking a lot about how technology mediates the way we perceive reality. And it’s being done in a super invisible and nuanced way. Technology is designed to shape our sense of reality by masking itself as the actual experience of the world. As a result, we are becoming unconscious and unaware that it is happening at all.

私はアーティストでありエンジニアです。そしてここのところ、私はテクノロジーが私たちの現実認識にどれほどの影響を与えているかについて、考え続けています。非常に気づきにくく、目には見えない形で進んでいるのです。

現実感とは、世界を実態として認知し感じることですが、テクノロジーはその感覚に覆いを被せています。その結果、私たちは無意識でそこで起きていることに無自覚になっているのです。

 

Take the glasses I usually wear, for example. These have become part of the way I ordinarily experience my surroundings. I barely notice them, even though they are constantly framing reality for me. The technology I am talking about is designed to do the same thing: change what we see and think but go unnoticed.

私も普段かけているメガネに例えると分かりやすいでしょう。メガネは常に私の環境をフレーミングしています。でも、私がそれを意識することはまずありません。

テクノロジーも同じようにデザインされています。見ているものと捉え方を変化させているのに、それに気づかせないのです。

 

Now, the only time I do notice my glasses is when something happens to draw my attention to it, like when it gets dirty or my prescription changes. So I asked myself, “As an artist, what can I create to draw the same kind of attention to the ways digital media — like news organizations, social media platforms, advertising and search engines — are shaping our reality? So I created a series of perceptual machines to help us defamiliarize and question the ways we see the world.

私がメガネに気がつくのは、レンズが汚れたときとか視力が変化したときとか、注意を引かれる何かが起きたときだけです。「アーティストとして、ニュースメディアやソーシャルメディア・プラットフォーム、広告、検索エンジンなどのデジタルメディアと同じように注目を惹きつけ、現実を形作るものをどのように創れるだろうか?」。私は自分に問いかけました。

こうして、私は世界の見かたを異化し疑問を投げかけるための、一連の知覚装置を創ったのです。

 

For example, nowadays, many of us have this kind of allergic reaction to ideas that are different from ours. We may not even realize that we’ve developed this kind of mental allergy. So I created a helmet that creates this artificial allergy to the color red. It simulates this hypersensitivity by making red things look bigger when you are wearing it. It has two modes: nocebo and placebo. In nocebo mode, it creates this sensorial experience of hyperallergy. Whenever I see red, the red expands. It’s similar to social media’s amplification effect, like when you look at something that bothers you, you tend to stick with like-minded people and exchange messages and memes, and you become even more angry.

Sometimes, a trivial discussion gets amplified and blown way out of proportion. Maybe that’s even why we are living in the politics of anger. In placebo mode, it’s an artificial cure for this allergy. Whenever you see red, the red shrinks. It’s a palliative, like in digital media. When you encounter people with different opinions, we will unfollow them, remove them completely out of our feeds. It cures this allergy by avoiding it. But this way of intentionally ignoring opposing ideas makes human community hyperfragmented and separated.

 

今日、私たちの多くが、自分のとは異なる考え方に対し、いわばアレルギー反応を示します。自分ではこの種の「精神的アレルギー」を発症したことすら気付いていないのかもしれません。

だから、私は「人工赤色アレルギーヘルメット」を作りました。これを着用すると赤色が大きく見える擬似過敏症が発動します。

ヘルメットにはプラシーボとノセボの2つのモードがあります。

ノセボモードでは、過敏アレルギー感覚を体験することができ、視界に入った赤色が拡大していきます。これはソーシャルメディアの増幅効果に似ていて、気に入らないものが目に入ると、自分と同じような考えの人たちと同じような意見や情報ばかりをやりとりするようになり、やがて最初よりも怒りを大きくします。

些細な議論なのになんだか熱くなり過ぎ、怒りを大爆発させてしまうことってありますよね。もしかしたら、私たちが怒りの政治の時代を生きているのはそのせいなのかもしれません。

プラシーボモードは精神的アレルギーの人工治療モードで、視界内の赤色が縮小します。苦痛緩和療法のようなもので、デジタルメディアで言えば自分と異なる意見の人をアンフォローしたり、タイムラインに表示されないようブロックするようなもので、アレルギーを引き起こすものを回避することで治療します。

でも、反対意見や考えを意図的に無視するこの方法は、社会を超断片化しコミュニティーを分断させるものですよね。

 

The device inside the helmet reshapes reality and projects into our eyes through a set of lenses to create an augmented reality. I picked the color red, because it’s intense and emotional, it has high visibility and it’s political. So what if we take a look at the last American presidential election map through the helmet?

ヘルメット内部のデバイスは、現実を再構築して作り上げた拡張現実を、レンズを通して私たちの目に投影します。私が赤を対象としたのは、それが情熱的で感情的で、とても目に付きやすくまた政治的だからです。

このヘルメットを通じて前回のアメリカ大統領選を見てみましょう。さあどうなるでしょうか?

Jiabao Li – transvisionより

 

You can see that it doesn’t matter if you’re a Democrat or a Republican, because the mediation alters our perceptions. The allergy exists on both sides.

民主党支持者か共和党支持者かは関係ありません。ヘルメットの介在が私たちの認知を変容させますから。アレルギーはどちらの側にも存在しているのです。

 

In digital media, what we see every day is often mediated, but it’s also very nuanced. If we are not aware of this, we will keep being vulnerable to many kinds of mental allergies.

私たちが日々デジタルメディア上で目にするものは、たいていなんらかの媒介作用を受け意味付けされています。それに無意識なままでいるということは、さまざまな種類の精神的アレルギーに脆弱でい続けるということを意味します。

 

Our perception is not only part of our identities, but in digital media, it’s also a part of the value chain. Our visual field is packed with so much information that our perception has become a commodity with real estate value. Designs are used to exploit our unconscious biases, algorithms favor content that reaffirms our opinions, so that every little corner of our field of view is being colonized to sell ads. Like, when this little red dot comes out in your notifications, it grows and expands, and to your mind, it’s huge.

認知とは私たちのアイデンティティの一部であるだけでなく、デジタルメディアにおいてはバリューチェーンの一部でもあります。私たちの視野はメディアを埋め尽くす大量の情報に奪われ、その場所には地価が付けられて商品としてやりとりされています。

デザインは私たちの無意識の偏見を食い物とするのに使われ、アルゴリズムはエコーチェンバーを起こさせるのに用いられます。こうして視野のあらゆる場所が、広告売買のための占領地とされてしまうのです。

通知を意味するこの小さな赤い点が拡大していき、あなたの意識を覆ってしまうように。

Jiabao Li – Pluginより

 

So I started to think of ways to put a little dirt, or change the lenses of my glasses, and came up with another project. Now, keep in mind this is conceptual. It’s not a real product. It’s a web browser plug-in that could help us to notice the things that we would usually ignore. Like the helmet, the plug-in reshapes reality, but this time, directly into the digital media itself. It shouts out the hidden filtered voices. What you should be noticing now will be bigger and vibrant, like here, this story about gender bias emerging from the sea of cats.

そこで、私は小さな汚れを加えるか、レンズを交換させる方法を考えるようになり、新たなプロジェクトをスタートさせました。なおこれは概念的なもので実際の製品ではありませんので、その点はご留意ください。

これはウェブブラウザのプラグインで、普段は気にならないものを気づかせるためのものです。先ほどのヘルメットは現実を違う形に変化させて使用者に見せていましたが、こちらは直接デジタルメディア側を変化させます。覆い隠されたメディアの声を、大声で指摘するのです。

こちらでは、大量のネコ記事の中から、性別バイアスに関する記事が大きく目立つように表示されるよう変化させていますね。

 

The plug-in could dilute the things that are being amplified by an algorithm. Like, here in this comment section, there are lots of people shouting about the same opinions. The plug-in makes their comments super small.

こちらのプラグインは、アルゴリズムが増幅したものを希釈しています。例えばこちらのコメント欄は、多くの人たちの同じような意見で一杯になってしまっています。それをこのプラグインが表示サイズを小さく変化させています。

 

So now the amount of pixel presence they have on the screen is proportional to the actual value they are contributing to the conversation.

ピクセルの量、つまり画面上を占めるスペースを、会話への貢献量と比例するように変化させているのです。

 

The plug-in also shows the real estate value of our visual field and how much of our perception is being commoditized. Different from ad blockers, for every ad you see on the web page, it shows the amount of money you should be earning.

またこのプラグインは、視野の不動産価値と認知の商品化がどれくらい進んでいるかも表示します

既存の広告ブロック機能とは、広告を除去するのではなく表示広告がそれぞれいくらで、あなたが稼ぐべき金額がいくらなのかを表示するところが異なります。


Jiabao Li – Pluginより

We are living in a battlefield between reality and commercial distributed reality, so the next version of the plug-in could strike away that commercial reality and show you things as they really are.

私たちが暮らすこの社会は、現実と商業的分散現実の戦いの場です。

プラグインの次期バージョンは、商業的現実を打ち消し実際の現物をお見せするためのものとなるでしょう。

 

Well, you can imagine how many directions this could really go. Believe me, I know the risks are high if this were to become a real product. And I created this with good intentions to train our perception and eliminate biases. But the same approach could be used with bad intentions, like forcing citizens to install a plug-in like that to control the public narrative. It’s challenging to make it fair and personal without it just becoming another layer of mediation.

さて、これらのテクノロジーがさまざまな方法で用いることができることがお分りいただけたと思います。

もちろん、これを実製品とすることがどれほどの危険を伴うかは私も分かっています。私は善意の元、認知力を鍛え偏見を排除するためのものとしてこれらを作りました。でも悪意の元に、このプラグインを強制導入させ、民衆の声の統制を図るといった使い方だって考えられます。

単なる別レイヤーの介在とならないよう、テクノロジーを公正で私的なものとするのは難しいチャレンジなのです。

 

So what does all this mean for us? Even though technology is creating this isolation, we could use it to make the world connected again by breaking the existing model and going beyond it. By exploring how we interface with these technologies, we could step out of our habitual, almost machine-like behavior and finally find common ground between each other.

これらは一体、何を意味しているのでしょうか?

テクノロジーがこの分離を生み出しているとしても、私たちは既存モデルを破壊して乗り越えることで、テクノロジーにより再び世界をつなげることができます。これらのテクノロジーとの関わり合いを探求することにより、私たちは機械じみた習慣的な行動を打ち破り、最終的にお互いの共通点を見つけ出すことができるのです。

 

Technology is never neutral. It provides a context and frames reality. It’s part of the problem and part of the solution. We could use it to uncover our blind spots and retrain our perception and consequently, choose how we see each other.

Thank you.

テクノロジーは決して中立ではありません。現実に対してコンテキストと枠組みを加えます。それは問題の一部でもあり解決策の一部でもあるのです。

私たちはテクノロジーで自分たちの盲点を発見し、認知を再訓練できます。そうやって、お互いの受け止めかたを選べるようになるのです。

ありがとうございました。

 

Happy Collaboration!

 

 

ランダムノート | 原研哉さんの講演会「日本、モダニズムを挟む過去と未来」

オリジナルはこちら

原研哉さんの講演会「日本、モダニズムを挟む過去と未来」を聴いてきました。

すごくおもしろかったので、原氏が語られた言葉と見せてくれた映像の中からランダムなノートを、先日読んだ原氏の著書『デザインのデザイン』の中の言葉と合わせていくつか。

 

■ グローバルになればなるほど、ローカルの価値が高まっていく。

グローバルというのは合理性であって実体はなく、価値の根源となる文化を持っているのはローカルだから。

国境を越えて動く人は現在は毎年12〜3億人。ここ10年で18億人にまで増え続けると予測されている。

移動が常態となる「遊動の時代」に生きるニュー・ノマドたちの眼に映っているのは、グローバルではなくローカルの持つ価値。

 

原氏のこの言葉は、『デザインのデザイン』に書かれていた氏がリードしている無印良品についての2つの文章を思い出させました。

・ センスの悪い国にセンスのいい国の商品が入ってきた場合、センスの悪い国の人々は入ってきた商品に触発されて目覚め、よそから来た商品に欲望を抱くだろう。しかしこの逆は起こらない(…)その企業がフランチャイズとしている市場の欲望の水準をいかに高水準に保つかということを同時に意識し、ここに戦略を持たないと、グローバルに見てその企業の商品が優位に展開することはない。

無印良品の思想はいわゆる「安価」に帰するものではない。コストを下げることに血眼になって大切な精神を失うわけにはいかない。また、労働力の安い国でつくって高い国で売るという発想には永続性がない。世界の隅々にまで通用・浸透する究極の合理性にこそ無印良品は立脚すべきである。したがって現在では、最も安いということではなく、最も賢い価格帯を追求し、それを消費者に訴求しなくてはならなくなった。

 

なお、講演会でも無印については触れていて、「豪華に誇らしさを感じるのではなく、むしろ引け目を感じさせるのがMUJIである」と表現されていました。

■ 世界地図を右に90度回転させるとユーラシア大陸の底にあるのが日本

応仁の乱が、<藤原(公家)の「豪華絢爛」から足利(武士)の「無」>へと文化体系をリセットした。

この変化の時に、「無: emptiness」から生まれる空間づくりや、空間を活かす建築や生け花、器などのアート・デザイナーが生まれた。

日本という国は、世界地図を右に90度回転させるとユーラシア大陸の底にあり、パチンコ台の受け皿のようになっている。ヨーロッパから発生したものがアジアや中東に発展し変化・熟成して落ちてくるるつぼという特殊な位置にある。

 

「無」の捉え方は原氏がよく語られている「白(代)」ともつながっていて、日本的な美(意識)を考える上でやっぱり外せないのだなぁと改めて思いました。下記に『デザインのデザイン』から2つの文章を。

・ 新奇なものをつくり出すだけが創造性ではない。見慣れたものを未知なるものとして再発見できる感性も同じく創造性である。既に手にしていながらその価値に気づかないでいる膨大な文化の蓄積とともに僕らは生きている。それらを未使用の資源として活用できる能力は、無から有を生み出すのと同様に創造的である。僕らの足下には巨大な鉱脈が手つかずのまま埋もれている

・ 「これがいい」ではなく「これでいい」という程度の満足感をユーザーに与えること。「が」ではなく「で」なのだ。しかしながら「で」にもレベルがある(…)「が」は時として執着を含み、エゴイズムを生み、不協和音を発生させることを指摘したい。結局のところ人類は「が」で走ってきて行き詰まっているのではないか。消費社会も個別文化も「が」で走ってきて世界の壁に突きあたっている。

 

ところで、何もない空白に価値を見出すのが得意だった日本文化が、ある場所においては「余白があると死んじゃう病」にかかっているのは興味深いですね。

 

いーえく@aqilaEX
 

この意味不明な改変が日本映画界の敗北そのものって感じ。

Twitterで画像を見るTwitterで画像を見る
kngrow ◢ ◤@nonoknglownnkjp
 

余白があると死ぬ病気を罹患しており、治療法は未だ見つかっておりません(南無 numb

Twitterで画像を見るTwitterで画像を見る
 
1,813人がこの話題について話しています
 

 

 

 

■ 威圧感と恐怖を与える全面幾何学模様を逆転したモダニズム

中東の幾何学的模様や、ヨーロッパの豪華な装飾様式。これらは王族や貴族の権力の象徴であり、市民に恐れを抱かせるという効用を持っていた。

それを逆転したのがモダニズム(近代的な自意識の表れ)でありバウハウスなどのポストモダンへと続く。

 

こちらも『デザインのデザイン』から。

・デザイン思想の背景には、少なからず社会主義的な色彩があった。ラスキンやモリスはものづくりが機械生産と直結した経済に牛耳られることを毛嫌いしていたし、バウハウスの誕生はワイマールの社会民主主義政府の手によって行われたわけで、いわゆる社会民主主義的風潮がバウハウス的思想を助長したとも考えられる。要するに、デザインの概念は少なからず理想主義的な社会倫理を前提として考えられてきた経緯があり、それは純粋であるほどに経済原理の強力な磁場の中ではその理想を貫く力が弱かった

・ デザイナーとしての自分は意図の明確な、意志的な計画に関与したいと思う。「核反対」とか「戦争反対」というような何かを反対するメッセージをつくることに僕は興味がない。デザインは何かを計画していく局面で機能するものであるからだ。環境の問題であれ、グローバリズムの弊害で問題であれ、どうすればそれが改善に向かうのか、一歩でもそれを好ましい方向に進めるためには何をどうすればよいのか。そういうポジティブで具体的な局面に、ねばり強くデザインを機能させてみたいと考えている。

最後に質問を受け付けてくれる時間があったので、それまでの原氏の話から飛躍する部分があるのは承知で以下の質問をしてみました。

「王政をひっくり返してモダニズムが生まれ、それを支える民主主義がヨーロッパで発達したのだとしたら、日本の皇室をひっくり返しめミニマリズムが生まれたあと、なぜ日本では民主主義が育たなかったのだと思いますか?

ご自身を”デザイナーとしてビジュアライズする役割”と捉えられているということでしたが、民主主義という大きな社会デザインに対してはどのようなスタンスでいらっしゃいますか? 今後の関わりかたなど、なにかお考えのことがあれば教えてください。 」

 

原氏の答えは以下のようなものでした。

ヨーロッパにはまだ古き良き伝統を良しとする、それをかっこいいものとして受け止める文化も根深く残っている。民主主義が、デザインの観点で素晴らしいものを今後生み出し続けていくかどうかはまだ分からず、時期尚早かも。

そんな中で僕が注目しているのは、中央ヨーロッパアメリカではなく北欧。あそこには民主主義を中心に置いた暮らしや生活がいち早く根付きつつあって、あの辺りが今後の文化の発祥の地となっていくのかもしれない。

日本にも「緻密・丁寧・簡潔・繊細」に代表される価値の源泉が多数残っているので、今後独自のローカルを発信していくのではないか。

 

うーん。「民主主義との関わりかた」には直接的には答えてもらえなかったような気もするけれど、氏が今取り組んでいる『低空飛行 – HIGH RESOLUTION TOUR』を見ていれば、直に答えが浮かび上がってくるのかもしれません。

 

他にも取り上げたい話はたくさんあるのだけれど、おれの稚拙な文章よりもこの2ページを見たほうが良いかもしれません。

なお、今回テキストの間に配置した動画は、下記の「NEO-PREHISTORY──100 Verbs: 新先史時代──100の動詞」に置かれたもので、原氏が講演の中で時間をしっかり取って紹介していたものでもあります。

Happy Collaboration!

 

 

状況と役割と関係性。あるいは偏見とイマーシブとインプロ。

オリジナルはこちら

www.ibm.com

スマホによって、人は退屈さや居心地の悪さというものに対する耐性を(ますます)失った」という話は数年前からちょこちょこ耳にする話。それはおそらく真実だろう。自分のことを考えても、エレベーターを待っている間とか、スマホをいじっていることも少なくない。

ただ、おれの場合は、それを無意識にやっているわけではなくて。
ほとんどの場合「この隙にメールチェックをしておこう」とか「退屈だから時間を潰そう」とか思って、意識的にやっている。

またそれと同じように、意識して「なんかちょっと居心地悪いなこの状況…。意識をここから切り離してしまえ」ってスマホを使うことも少なくない。

電車の中、処方箋薬局の待合室、早く着いてしまったスタート前のセミナーやワークショップ会場…。状況によっては罪悪感みたいなものも感じながら。

みんなはそんなことないのかな?

 

職場に潜む「見えない偏見」をあぶりだす! 9月1日(日) REVERSE開催 | 株式会社ソフィア

 

先日『REVERSE -見えない自分を知ることからコミュニケーションを変える-』という研修に参加してきました。

簡単に説明すると、アンコンシャス・バイアス(無意識の偏見)を、イマーシブ(没入型)演劇やインプロ(即興劇)を通じて浮かび上がらせて、自身のコミュニケーションスタイルや状況に対するスタンスを理解しようというものです。

 

簡単な説明になっていない? あるいはワケが分からない?

もう少しだけ細かく(でも、おれ自身の感覚と言葉で)説明してみます。

  1.  アンコンシャス・バイアス – 自分でも意識できていない、十分な根拠のない思い込み
  2.  イマーシブ(没入型)演劇 – 舞台と客席が分離しておらず、その場にいる人がすべて演劇の一部となる(役割を持つ)タイプの参加型の劇
  3.  インプロ(即興劇) – 状況設定がはっきりしない中で、参加者が別の参加者の演技を受けてアドリブで続けていく劇

 

2時間ほどの研修は、まず2番の「職場を舞台としたイマーシブ演劇」があり、その後3番の短い「インプロを含むいくつかのグループワーク」があり、その途中と最後に1番の「アンコンシャス・バイアスに関する気づきの共有」の時間を持つという内容でした。

時間にすればわずか2時間だったものの、自分の心の動きはなかなかダイナミックに、そして同時進行的にいろんなことを感じていた気がします。

あのとき感じたことを今後も思い出せるように、時系列に書いておこうと思います。

 

 

10:15

会場について、差し出された箱の中からボールを一つ掴むと、10と書かれていました。そして座席票(上の写真)が渡されました。

どうやら最初がイマーシブ演劇らしい。でも、なぜかおれだけ他の参加者(番号)から離れていて周りに誰もいない…。やれやれ、なんか特別な席っぽいぞ。ちょっと面倒かも?

でもまあ、周りにあんまり気を使わなくていいからいっか。始まるまで15分くらいあるし、ちょっとスマホでもチェックするか…。

 

10:45

Out Of Theaterの役者さんたち、上手いなぁ。…そしてなんだかこの席、セリフ振られたり声かけられることが多いな……。あっ分かった! 参加者の中でおれだけ役職付きだ! 多分、一番下っ端の…課長代理?

…参ったな、課長代理なんておれには1番遠くて、どう立ち振る舞うキャラ設定にすればいいやら…。…いや待てよ。おれは役者じゃないんだから「演じる」心配は不要じゃね? もっとこの場を味わわないと。

…でも考えてみれば、「この場でおれにとってふさわしい行動ってなんだろう?」って、家にいるとき以外はいつも嗅ぎとろうとしているかも、おれって…。

 

11:00

ああ、もっと関与したい。部長に意見言いたい。課長にも意見言いたい。彼女にも。

あれ? でもおれが「関与したい」って思うのはなんでだっけ。「お芝居上手いですね」って後から褒められたいから? それは違うな。「全体を見れている人」「やるべきことをやれる人」って周りにアピールしたいから? あるいはそうしないでいる自分自身に感じる心地悪さを解消したいから?

…まあ何はともあれ、時間管理の観点からも「超積極的関与」は誰にも求められていないだろうから、味わっていようっと。

あれ、これでイマーシブ終わりか。あー、おもしろかったけどモヤモヤしたなぁ。

 

 

11:15

こっからインプロね。さて何やるのかな。

(アイスブレイク的共同ワークで)ここ多分、サラッと流すところっぽいんだけど、すでにややこしいことしようとしてる人いるな。おれの番で1度リセットできるかな?

……うーん、効果なかったみたい。残念。

 

11:30

体の姿勢が意識に与える影響の話だな。これは昔から結構認識していて、プレゼン前に自己暗示的にガッツポーズ使ったりはしてるんだよね。あ、でもあえて「縮こまった姿を取ることで、相手を喋りやすくする」っていう発想はこれまでなかったな。なるほど。

そしておれは「足を組んだり手を頭の後ろで組む」ポーズが「権力的なポーズ」で、「相手を威圧しようとするポーズ」だって知っているし、「まあ別にそう取られても構わないからいいや、楽だし」ってやってるつもりだったんだけど、もしかしたら、「手を顔に当てる」っていう「不安の表出化を感じさせるポーズ」が自分の癖だって知っているので、そこでバランスを取ろうとしているのかも? — これまで考えたこともなかったけど。

 

11:45

(いくつかお互いのキャラ設定を変更しながらのインプロ直後。)「役割りの力」って強いよなぁ。「あなたはxxxx」って自分の役割を設定されると、積極的にそれにハマりにいく自分がいる。そして「相手はxxxx」って設定でも、同じように相手に合わせた役割を作りハマりにいく自分がいる。

そう言えば、好きだった上司に昔言われたっけ。「あんたは自分のことを分かってないわね。あんたのいいところは、どんなに不安定な状況でも、どうにか着地させて生き延びる道を見つけられるところよ」って。それってこれと関係していたのかも?

 

12:15

さっきのイマーシブでもそうだったけど、おれってものすごく「状況と役割と関係性」にアンテナを立てて生きているんだな。

子どもの頃からずーっとそうだったから、息をするようなもんでほぼ自覚していなかったし、「場の中で足りない役割を見つけて、それを埋めようとする人」とは認識していたけれど。

でも、相手との関係が「一過性」か「頻度は低いけどやりとりがある(あるいは生まれそう)」か「毎日のようにやり取りする(あるいはせざる得ない)」かによって、相当無意識に自分を変化させているな、おれ…。これって態度にも出ているんだろうし、周りにも伝わっているんだろうな。

 

12:30

あ、いまこのImpro Kids Tokyoの講師の方、おれが最近忘れていた大事なことをサラっと言ったな。

「”まあいっか”って誰も言わずに流してしまうと、後からそれが”それでいいこと”や”そういうもの”になってしまいかねない。」 — そうなんだよ。『「空気」の研究』だよ、王様は裸だ。

 

12:45

(会場を離れた電車の中で。)無意識のバイアスについてはこれまで研修に参加したり、自分が研修を企画したりしてきた。その中で、自分なりの「(仮の)答え」を置いてきた。

そもそも人間はバイアスの塊で、バイアスそのものに良いも悪いもない。

悪なのは「不公平な扱い」につながるバイアスである。

(参考: 無意識のバイアス研修に参加しました – ダメパチ撲滅協力のお願い

 

ただ、今日の体験を踏まえると、自分が「無意識の」を置いてきぼりにしてきた気がする。

まずは自分の、あるいは世間のバイアスに意識的であろう。無意識なままでは、同じ失敗を繰り返してもその発端に気づけない。バイアスを意識しよう。無意識ゆえに「不公平な扱い」につながるバイアスを、そのまま気づかないままにのさばらせてしまわぬように。

「(仮の)答え」をアップデートしておこう。

人はバイアスを作り続けるようにできているけれど、それを意識することはできる。

バイアスを常に意識して、それが「不公平な扱い」につながらないように注意しよう。

 

研修を提供してくれたソフィアさん。イマーシブを体験させてくれたOut Of Theaterさん、インプロを味わわせてくれたIMPRO KIDS TOKYOのお2人、本当にありがとうございました!

 

 

ところで、最初に「早く到着したセミナーやワークショップ会場でスマホを使う」と書いたけれど、これは半分本当で半分嘘です。

おれの場合、会場のセッティング(机や椅子の配置)や雰囲気、周囲の人たちの様子を見て、スマホと一緒に1人で時間を過ごすこともあるし、意識的に周囲の人たちに声をかけたりすることを使い分けています。

 

でも、それが主催者のためなのかその場にいる全員のためなのか、はたまたその裏側には「よく思われたい。感心されたい」という気持ちのおれがいるからなのか、自分でもよく分かりません…。

多分、全部がごっちゃになっているんだろうな。

 

Happy Collaboration!