あしたのコミュニティー: ダンバーと共有脳の向こう側
オリジナルはこちら(2013/07/05)
今回の『あしたのコミュニティー: ダンバーと共有脳の向こう側』で、最近の2エントリー『グループとチームとコミュニティーの違い』と『今、求められている理想のコミュニティー』と併せてコミュニティー3部作となったシリーズもひとまず最終回です。
今回もちょっと長めになりました。ということで、目次を。
■コミュニティーの理想形がここにあった!
先日、コミュニティー・マネージャーが集まるFacebookグループで、以下のブログ記事をとある方からご紹介いただきました。
『「コミュニティの鍵は貢献にある」ミラツク代表・西村勇也さんが考える、未来をつくるための”コミュニティデザイン”とは?』
すでに1年以上前に書かれているこの記事ですが、本当に素晴らしいです。
コミュニティーに思いを馳せるすべての人に薦めます!
では、ネットワーク、チームとコミュニティの違いは何か。確かに、これら3つは全て人が集まっているという共通点がある。しかし、ネットワークは人のつながり、チームは目標達成のための活動体、そして、コミュニティは互いに貢献し合う関係が元になっている。
ネットワークについて例を挙げると、交流会に見られるような…
貢献は、例えばお互いにリソースをシェアすることや(例えば、地域コミュニティでは「おすそわけ文化」や「里山文化」)、お互いに協力することができるかどうかという行動によって見ることが出来る。そして、この貢献行動の基盤となっているのが「信頼」と「共有」だ
自分の持っている大切な物を出すための「信頼」。そして、互いに何を求めているかを背景と未来への想いを「共有」。
この他にも、「信頼と共有を生みだす対話の場のあり方」や「pay forwardの実践」などを通じて、コミュニティーのあるべき姿がビビットに描き出されています。
そこに描かれているのは、本当にすばらしいステキなコミュニティーです。
■理想の高さと幻滅の近さ
しかし、やはりこれは「コミュニティーのある一つの究極形」であって、これが実現される場が果たしてどれだけあるのだろう? と思ってしまうのです。
理想の高さと幻滅の近さは往々にして比例します。
一言で言ってしまえば、ものすごく高い要求を突きつけていると言えるのかな、と。
(念のため再度書きますが、この姿が理想形の一つであることは間違いないと思ってますし、私は深く賛同します)
「そのうちチャンスがきたらきっと貢献します」というスタンスのメンバーや、時間と場所が異なるところからだけ参加するオンライン・オンリー・メンバーも居心地良く参加できるコミュニティーの姿も、Happyな未来を作るコミュニティーの形だと私は思うのです。
■楽観性と創発力
「高い塀」を入り口の用意する。そして「目の細かいふるい」をところどころに置く。
確かにこれはコミュニティーに一本筋を通す、硬質で効果的な手段でしょう。
ただ一方で、塀やふるいの役割りがブロックや排除であることから、可能性を狭めてしまう要素であることも間違いないでしょう。
もっと気楽に出入りできる、サロンや広場のような雰囲気が、新しいモノゴトへ結びつくことが多い気がします。
例えば、ちょっと無責任とも言えるようなアイデアや意見だったり、シニカルな視点からの茶化しやイジりだったり、現実性を欠いた楽観的過ぎるコメントだったりを構え過ぎずに出せるコミュニティー。
それを面白がったり膨らませたりしようとする姿勢が、メンバーの創発力を刺激する場面は頭に浮かびやすいのではないでしょうか。
ブレインストーミングや、壊すために作るプロトタイピングのような、そんなアプローチがイノベーションにつながりやすいというのは、見聞きしたり感じたりしたことがありますよね。
■ダンバー越え
前回の記事に、こう書きました。
これはコミュニティーをはじめ、あらゆる組織にあてはまることだと思います。
ただ、多様性を支えるのが流動性であり、移動の自由のないところに流動性がないことはあまり意識されていない気がしてなりません。
移動の自由とは、出入りのしやすさです。
出入りのしやすさがなければ、移動の自由は成り立たちません。
ここで、ちょっと無責任で楽観的に、ソーシャルウェブ時代のコミュニティーがどんな風に私たちにHappyをもたらすかを考えてみようと思います。
せっかくなので、ちょっと先の未来からレトロスペクティブな独白調で書いてみます。
僕たちは、ソーシャルウェブやオンラインをベースにしたコミュニティーにより、昔よりずいぶん賢くなった。
昔、僕たちの世界はとても狭かったらしい。
150人程度の同じ地域や学校、同じような職種のメンバーとだけつながって、情報交換したり対話したりを繰り返していたらしい。
そして家族や自分の事情で引っ越しやら転職やらというちょっとしたイベントがあると、ほとんどのつながっている相手が上書きされてしまっていた。
なんせ、場所が離れると、情報を発信することも受け取ることも大変だからね。
今のように、離れていても活動が自然と可視化されるっていう時代じゃなかったんだって。
そして毎回のように、ライフイベントの後には、新たな地で「数十人を残してリセットされた状態」から、つながるべき100人を探し出していたそうだ。
一方で、同じ地にとどまり続ける人たちは、何かのきっかけで新しい出会いがあると、「今つながってる人とどっちがイイかな?」と比較していたらしい。
どうやら、ダンバーさんという学者さんが研究したらしいんだけど、150人程度が当時の人間の脳ミソの「安定した関係の維持ができる人数」の限界値だったからのようなんだ。
なんとまあ、少ないことか!
だから、交換や取替えはあっても、追加は行われなかったらしい。
どうやら無意識にやっていたようだけど、新たなつながりが1つ加わると、古い1つが押し出されていたようだね。
この太古の昔からの脳ミソの限界が変わってきたのは、21世紀かららしい。
ソーシャルウェブがやってきて、僕らのつながりが上書き/リセットベースから、更新/アドオンベースになった。
そして、人間関係は時間と場所に縛られず、緩く広く可用性を持ってつながるようになった。
今のように、どこにいてもアイデアや意見を交換したり、感情や体験を共有して想いを伝え合うことができるようになったのは、実はそんなに昔のことじゃなかったんだな。
■流動性と貢献
上の話はちょっと極端かも知れませんが、感覚的に分かる部分もあるという方が多いんじゃないでしょうか。
多少のデフォルメはあるけれど、私の身の回りですでに耳にするいくつかの話をつなぎあわせただけです。
そして、貢献のカタチも、少しずつかも知れませんが変わってきていると気感じています。
昔のように、金、モノ、労働…など、分かりやすくて目につきやすいものだけが貢献として捉えられるわけではないですよね。
例えばオンライン・コミュニティーへ関連URLを書き込んだり、いいねボタンやシェアによって承認や共感のサインを示したりという「通常の流れにある行動 そのもの」、言ってみれば「積極的な受動」や「消極的な能動」とも呼べそうなものが、情報そのものに付加価値を与え、コミュニティーにプラスの力を与えて いるとして貢献として受け止められています。
そう。それだって、立派な貢献です。
そして、この形でなら、いろいろな事情から場所や時間の自由が効かない人も、窮屈な想いをせずにゆるやかに貢献を続けられます。
いつか自分の得意な分野で、もっとたくさんの力を発揮できそうな時をゆっくり待ちながら。
こうしたゆるやかさとしなやかさが、コミュニティーの流動性にもつながっていくのではないでしょうか。
■多様性と多面性
私たちはどうしても「共通の言語」を持っている者同士で集まりやすいです。
文字通りの言語もそうだし、趣味や興味、属性など、意識的に散らそうとしてもなかなかそうはいきません。
きっと、人間はそういう風にできているんですね。
「それでは流動性があっても多様性が発揮されないじゃないか!」―― そんなお叱りの声が聞こえてきそうです。
でも、本当にそうでしょうか?
似た趣味や興味を持った人間の集まりには、多様性がないのでしょうか?
そもそも、多様性って性別や年齢、国籍の違いなど、そんな目につきやすい分かりやすいものばかりなんでしょうか?
同じ性同じ年同じ国籍でも、私たちは驚くほど違っていると思うのです。
一人ひとりが自分の感性や個性を自覚して、周囲と異なる点を大切にして安易に同調圧力に擦り寄ることを良しとせず、違いを楽しめるようになれば無理に「目
小中学校で習った「みんなと同じ」に見えるように聞こえるようにする訓練なんて忘れちゃいませんか?
自らの多面性を出していくことで、多様性の花は開きます。青い鳥はきっとすぐそこの庭で待っています。
■共有脳、あるいは協働脳の向こう側
こうして、ソーシャルウェブに支えられた流動性と多様性を持つコミュニティーは、より強力な共有脳、あるいは協働脳となって世の中にインパクトを与えていくことでしょう。
ただ、分からないのは、それがどういうタイプのどんなインパクトなのか、ということです。
ソーシャルウェアが私たちの本質をむき出しにしていく中で、願わくば、オンライン・コラボレーションがもたらすものが、共通善をベースにした、楽しくてワクワクするものでありますように。
Happy Collaboration!