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ランダムノート | 原研哉さんの講演会「日本、モダニズムを挟む過去と未来」

オリジナルはこちら

原研哉さんの講演会「日本、モダニズムを挟む過去と未来」を聴いてきました。

すごくおもしろかったので、原氏が語られた言葉と見せてくれた映像の中からランダムなノートを、先日読んだ原氏の著書『デザインのデザイン』の中の言葉と合わせていくつか。

 

■ グローバルになればなるほど、ローカルの価値が高まっていく。

グローバルというのは合理性であって実体はなく、価値の根源となる文化を持っているのはローカルだから。

国境を越えて動く人は現在は毎年12〜3億人。ここ10年で18億人にまで増え続けると予測されている。

移動が常態となる「遊動の時代」に生きるニュー・ノマドたちの眼に映っているのは、グローバルではなくローカルの持つ価値。

 

原氏のこの言葉は、『デザインのデザイン』に書かれていた氏がリードしている無印良品についての2つの文章を思い出させました。

・ センスの悪い国にセンスのいい国の商品が入ってきた場合、センスの悪い国の人々は入ってきた商品に触発されて目覚め、よそから来た商品に欲望を抱くだろう。しかしこの逆は起こらない(…)その企業がフランチャイズとしている市場の欲望の水準をいかに高水準に保つかということを同時に意識し、ここに戦略を持たないと、グローバルに見てその企業の商品が優位に展開することはない。

無印良品の思想はいわゆる「安価」に帰するものではない。コストを下げることに血眼になって大切な精神を失うわけにはいかない。また、労働力の安い国でつくって高い国で売るという発想には永続性がない。世界の隅々にまで通用・浸透する究極の合理性にこそ無印良品は立脚すべきである。したがって現在では、最も安いということではなく、最も賢い価格帯を追求し、それを消費者に訴求しなくてはならなくなった。

 

なお、講演会でも無印については触れていて、「豪華に誇らしさを感じるのではなく、むしろ引け目を感じさせるのがMUJIである」と表現されていました。

■ 世界地図を右に90度回転させるとユーラシア大陸の底にあるのが日本

応仁の乱が、<藤原(公家)の「豪華絢爛」から足利(武士)の「無」>へと文化体系をリセットした。

この変化の時に、「無: emptiness」から生まれる空間づくりや、空間を活かす建築や生け花、器などのアート・デザイナーが生まれた。

日本という国は、世界地図を右に90度回転させるとユーラシア大陸の底にあり、パチンコ台の受け皿のようになっている。ヨーロッパから発生したものがアジアや中東に発展し変化・熟成して落ちてくるるつぼという特殊な位置にある。

 

「無」の捉え方は原氏がよく語られている「白(代)」ともつながっていて、日本的な美(意識)を考える上でやっぱり外せないのだなぁと改めて思いました。下記に『デザインのデザイン』から2つの文章を。

・ 新奇なものをつくり出すだけが創造性ではない。見慣れたものを未知なるものとして再発見できる感性も同じく創造性である。既に手にしていながらその価値に気づかないでいる膨大な文化の蓄積とともに僕らは生きている。それらを未使用の資源として活用できる能力は、無から有を生み出すのと同様に創造的である。僕らの足下には巨大な鉱脈が手つかずのまま埋もれている

・ 「これがいい」ではなく「これでいい」という程度の満足感をユーザーに与えること。「が」ではなく「で」なのだ。しかしながら「で」にもレベルがある(…)「が」は時として執着を含み、エゴイズムを生み、不協和音を発生させることを指摘したい。結局のところ人類は「が」で走ってきて行き詰まっているのではないか。消費社会も個別文化も「が」で走ってきて世界の壁に突きあたっている。

 

ところで、何もない空白に価値を見出すのが得意だった日本文化が、ある場所においては「余白があると死んじゃう病」にかかっているのは興味深いですね。

 

いーえく@aqilaEX
 

この意味不明な改変が日本映画界の敗北そのものって感じ。

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kngrow ◢ ◤@nonoknglownnkjp
 

余白があると死ぬ病気を罹患しており、治療法は未だ見つかっておりません(南無 numb

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■ 威圧感と恐怖を与える全面幾何学模様を逆転したモダニズム

中東の幾何学的模様や、ヨーロッパの豪華な装飾様式。これらは王族や貴族の権力の象徴であり、市民に恐れを抱かせるという効用を持っていた。

それを逆転したのがモダニズム(近代的な自意識の表れ)でありバウハウスなどのポストモダンへと続く。

 

こちらも『デザインのデザイン』から。

・デザイン思想の背景には、少なからず社会主義的な色彩があった。ラスキンやモリスはものづくりが機械生産と直結した経済に牛耳られることを毛嫌いしていたし、バウハウスの誕生はワイマールの社会民主主義政府の手によって行われたわけで、いわゆる社会民主主義的風潮がバウハウス的思想を助長したとも考えられる。要するに、デザインの概念は少なからず理想主義的な社会倫理を前提として考えられてきた経緯があり、それは純粋であるほどに経済原理の強力な磁場の中ではその理想を貫く力が弱かった

・ デザイナーとしての自分は意図の明確な、意志的な計画に関与したいと思う。「核反対」とか「戦争反対」というような何かを反対するメッセージをつくることに僕は興味がない。デザインは何かを計画していく局面で機能するものであるからだ。環境の問題であれ、グローバリズムの弊害で問題であれ、どうすればそれが改善に向かうのか、一歩でもそれを好ましい方向に進めるためには何をどうすればよいのか。そういうポジティブで具体的な局面に、ねばり強くデザインを機能させてみたいと考えている。

最後に質問を受け付けてくれる時間があったので、それまでの原氏の話から飛躍する部分があるのは承知で以下の質問をしてみました。

「王政をひっくり返してモダニズムが生まれ、それを支える民主主義がヨーロッパで発達したのだとしたら、日本の皇室をひっくり返しめミニマリズムが生まれたあと、なぜ日本では民主主義が育たなかったのだと思いますか?

ご自身を”デザイナーとしてビジュアライズする役割”と捉えられているということでしたが、民主主義という大きな社会デザインに対してはどのようなスタンスでいらっしゃいますか? 今後の関わりかたなど、なにかお考えのことがあれば教えてください。 」

 

原氏の答えは以下のようなものでした。

ヨーロッパにはまだ古き良き伝統を良しとする、それをかっこいいものとして受け止める文化も根深く残っている。民主主義が、デザインの観点で素晴らしいものを今後生み出し続けていくかどうかはまだ分からず、時期尚早かも。

そんな中で僕が注目しているのは、中央ヨーロッパアメリカではなく北欧。あそこには民主主義を中心に置いた暮らしや生活がいち早く根付きつつあって、あの辺りが今後の文化の発祥の地となっていくのかもしれない。

日本にも「緻密・丁寧・簡潔・繊細」に代表される価値の源泉が多数残っているので、今後独自のローカルを発信していくのではないか。

 

うーん。「民主主義との関わりかた」には直接的には答えてもらえなかったような気もするけれど、氏が今取り組んでいる『低空飛行 – HIGH RESOLUTION TOUR』を見ていれば、直に答えが浮かび上がってくるのかもしれません。

 

他にも取り上げたい話はたくさんあるのだけれど、おれの稚拙な文章よりもこの2ページを見たほうが良いかもしれません。

なお、今回テキストの間に配置した動画は、下記の「NEO-PREHISTORY──100 Verbs: 新先史時代──100の動詞」に置かれたもので、原氏が講演の中で時間をしっかり取って紹介していたものでもあります。

Happy Collaboration!