オリジナルはこちら(2015/12/26)
村上アシシさんと、「元旅人」として1月30日に対談させていただくことになりました。2016年1月30日(土) 14:00スタート: 2人の旅人が語る自分らしい生き方 -元旅人と現役旅人の特別対談-
「百数え終わるまでお風呂から出ちゃダメだぞ。いーち、にー、さーん…」
「ちゃんとしっかり噛んで食べるのよ。飲み込むのは百回噛み終えてからよ」
ちっちゃい頃、こんな風にお風呂の入り方とご飯の食べ方を教わりました。今でもこの癖が抜けません(みんなは違うのかな?)
こうやって頭が数字を数えている間、私は他のことを上手に考えたり感じたりできません。
本当なら、肌がお湯に包まれて体が温まっていく喜びをもっと全身で(全脳で)感じられたんじゃないか? 素材のうまみを感じ取る味覚力を成長させられたんじゃないか? とか。
いや待て。ひょっとして普通の人は、数を数えながら別のことに脳みそを費やすことができるのか?! とかとか思ったり。
でも、私の脳みそは不器用に「カウントする」という作業に半分くらいは費やされてしまうのです(当脳比)。
脳は追及の旅に出れない。
スポーツするのは好きだ。でも実は、スポーツそのものを楽しんでいるわけじゃない。
例えば、エアロビクスの何が好きかというと、インストラクターに言われるがままに体を動かしているうちにまったく別のことを考え始めたり、そのうちまったく何も考えない状態になったりという、「脳みそがどこかに旅に出てしまう」あの感じが好きなのだ。
水泳も同じだ。単調な動きを繰り返しているうちに、脳みそは体のコントロールに意識を向けることを止めどこか無意識の先を探求しに行ってしまう。
ようするに、脳が、旅に出ていくあの感覚が好きなのだ。
もう少しこの感覚について考えてみると、脳旅にもいくつか種類があるように感じる。
- 普段気に留めている何かを、ふと深くじっくり考える脳旅
- なんでこんなことをじっくり考えているのだ? と後から自分でも不思議に思う脳旅
- 脳が自身の存在を忘れているような、まったく何も考えない脳旅
「さあ行くぞ!」と脳旅に意識的に旅立てる人にとっては何てことないことなんだろう、でも私の脳は私に似て不器用で(イヤ待て脳みそこそが私なのか?)、脳旅に向うにはそれなりの準備とか十分な時間が必要だったりするのだ。
その点、スポーツは私を5分や10分で旅立たせてくれる。
そんなわけで、エアロビクスのインストラクターさんとかプールの監視員さんとかはあまり美人だと困る。脳がなかなか旅立とうとしない。
話はあちこちに飛ぶ。
旅と旅行の違いってなんだろう。
旅の方がカッコよくて、旅行のほうがカッチリ。旅の方が冒険的で、旅行のほうが計画的。
旅は感じるのが目的で、旅行は行くことが目的。旅は内省的で、旅行は観光的。
ざっと考えるとこんな違いだろうか。
もっときちんとした定義があるのだろう。Wikipediaか辞書でもひけばなるほどと唸らされるのかもしれない。
でもあえてひかない。そのうち脳が旅に出たときにでもじっくり考えてくれるかもって期待しながら。
先ほど、脳旅にもいくつか種類があるようだと書いた。
- 普段気に留めている何かを、ふと深くじっくり考える脳旅
- なんでこんなことをじっくり考えているのだ? と後から自分でも不思議に思う脳旅
- 脳が自身の存在を忘れているような、まったく何も考えない脳旅
こうしてみると、「脳旅」は「脳旅」であって、決して「脳旅行」ではないんだという気がする。
自由で無計画。それ故どこにもたどり着かないような空振りも多いし、意味や目的なんてなかったりもする。
効率重視の世の中においては、「時間の無駄遣い」だとか「さえない時間の使い方」だってことになるのだろう。
だが、脳旅からとっても素敵なアイデアが浮かぶことや、脳旅がモノの新しい見かたを教えてくれることも少なくはないのだ(多くもないかも)。
そして脳旅から出てきたアイデアややり方には、たいてい強い愛着を感じることができるのだ。それはきっと、本当の自分から出てきたものだから。
脳旅こそがオリジナリティーの源泉なのかもしれない。
会えない時間が愛を育てるように、さえない時間が自分を育てているのかも。
現役旅人で頭脳明晰なコンサルでサッカージャーナリストの村上アシシさんと、「元旅人」として1月30日に対談させていただくことになりました。
会場がわりと広いらしいので、1人くらいは私の知人友人にもいてほしいなぁって思っているんですが…どうですか、来てみませんか?
Happy Collaboration!