Pachi's Blog Annex ~自薦&自選よりぬき~

『Pachi -the Collaboration Energizer-』の中から自分でも気に入っているエントリーを厳選してお届けします♪

ぱちはらダイアログ16〜20

オリジナルはこちら


ここんとこハイピッチで「ぱちはらダイアログ」やってたら、なんと年内にトータル20回に!
「100回まではやろうぜ」なんて2人で言ってたんだけど、このペースで行くとあっという間に100回到達しそう!?

今回は16回から昨日の20回までを振り返ってみます。

 

■ 民主主義とデモクラシー | ぱちはらダイアログ16(201128)

ゲスト: なし


デモクラシーフェス賛同企画 ぱちはらダイアログ Vol.16 「民主主義とデモクラシー」

  

デモクラシーフェス2020というすばらしいイベントに賛同して「勝手」企画として急遽開催した第16回は、ゲストなしでこれまでを振り返りつつ、「民主主義とデモクラシー」について。

タイトルは「民主主義とデモクラシーって、日本語か英語かの違いでしかないじゃん!?」と思ってもらいたくて付けました。

辞書的に言えばそうかもしれないけど、実際は結構違うところあるよねぇ、例えば…なんて話をしています。

 

 

■ 民主主義とVisual Thinking Strategy (VTS) | ぱちはらダイアログ17(201211)

ゲスト: みゆうさん


ぱちはらダイアログ Vol.17「民主主義とVisual Thinking Strategy (VTS)」

 

 

ゲストのみゆうさんは、11月の北海道東川町での「週末フォルケ」で仲間になった大学生です(週末フォルケについて、詳しくはこちらの「民主主義は雑談に支えられている(冬のフォルケ総括その2)」 にて)。

視覚的センスの鋭いみゆうさんに教えてもらったのが「VTS」。対話型美術鑑賞ワークショップというのが一般的な日本語訳になるようです。

個人的には「ストラテジー」っていう単語が日本人的には馴染みづらいというか、誤解を生みやすいなぁと思ってます。どうしても「戦略」ってイメージが強い単語なので。

でも、もっとシンプルに「方法」とか「手順」って意味でも使われるんですよね。VTSはそっちの意味合いが強く「絵画などのビジュアルアートから自由にものやメッセージを見出し、会話を通じて認知を広げていく方法」とおれは認識しています。

 


ポイントは、「認知」は主観によるものなので、だれも正しいとか間違っているとかを決められないこと。つまり多様性を認め楽しむのに非常に適したトレーニングだって言えるんじゃないかな。

トークの後半では、みゆうさんが作成した「週末フォルケ」の振り返りアウトプットをベースに話をしてもらってます。

 

 

■ 民主主義とチームワーク | ぱちはらダイアログ18(201218)

ゲスト: 池田朋弘さん


ぱちはらダイアログ Vol.18 「民主主義とチームワーク」

 

 

テーマは「民主主義とチームワーク」ですが、裏テーマ(?)は「民主主義とマンション管理」でした?!

いやぁ、最初はどんな話に展開していくのやら…と思いながらやってましたが、話していくうちにどんどん民主主義のコアなところに近づいていったような気がしています。改めて、民主主義は政治の話(だけ)ではなく、生活やコミュニティーに直結した話だなぁと。

 

ところで、池田さんと最初にお話をしたのはたしか半年くらい前。結局「ジェレミー・リフキンの第3次産業革命」に関するオンラインセミナーを一緒にやったのですが、そもそもは「パチさん、オンライン・コラボレーションに関してセミナーで話しませんか?」ってお誘いをいただいたのが最初の出会いでした。

おれは職場あるいは業務におけるオンライン・コラボレーションに関する実践や研究から離れて2年近く経っているので断ったんだけど、このダイアログの中でも何度か話題になっている池田さんの著書『テレワーク環境でも成果を出す チームコミュニケーションの教科書』を読んで、その頃のことがいろいろ頭に浮かびました。

「経営者」「営業マネージャー」「マーケティングマネージャー」など、さまざまな立場でチームコミュニケーションを考え取り組んできた池田さんの経験がベースとなっているので、裏付けを感じられるし実践的な本です。

チームリーダーやマネージャーなど「チームコミュニケーションをリードしなければならない」という立場の方や「漏れなく一通りすべてをきちんと把握しておきたい」という人には強くオススメします。本の紹介はご本人のnoteで!

 

 

■ 民主主義とキャリア | ぱちはらダイアログ19(201219)

ゲスト: たか&ゆっけ


ぱちはらダイアログ Vol.19 「民主主義とキャリア」

 

 

第17回のみゆうさんに続き、東川町の週末フォルケで仲間になったたかとゆっけにご登場いただきました。

たかは一見「普通の好青年」ですが、かなりこんがらがったというかよじれた10代を過ごしていたようです。おれは東川町での2日目にちょこっとだけその片鱗を耳にしました。

きっと、公にはできないようなことも結構あったんじゃないか…? という気がしています。今度、酒でも飲みながらまたじっくりそんな話を聞いてみようっと。

  

ゆっけは今回、とても重要な役割を果たしてくれました。それは、おれたちをどやしつけてくれたこと。

ぱちはらダイアログの元々のコンセプトは、おれたちが頭でっかちに凝り固まってしまわないように、自分たちとは違う世界を知っていたり見聞きしたりしている人たちに教えを請い、なんならダメ出しをしてもらうこと。そのコンセプトを思い出させてくれました。

それから「プロボノだからこそサステナブルに続けられる」って話、今度もっと深掘りしてみたいなぁ。

 

 

■ 民主主義とジャーナリズム | ぱちはらダイアログ20(201226)

ゲスト: ニールセン北村朋子さん


ぱちはらダイアログ Vol.20 「民主主義とジャーナリズム」ゲスト:北村朋子さん

  

 

19回目を終えたときに「次は来年かな?」なんて思ったんだけど、「せっかくキリの良い数字だし年内にもう1回やりたいね。やるなら記念にふさわしいゲストを呼びたいよね」なんて話してニールセン朋子さんに予定を聞いたら「ぜひ!」と言っていただけました。

2001年からデンマークのロラン島に暮らす朋子さんは、おれを最初にデンマーク文化の入り口に立たせてくれた人で、今も日常的に気づきを与えてくれる人。そんな朋子さんとのダイアログテーマは「ジャーナリズム」にしました。

 

冒頭、原さんにいきなり「パチはジャーナリズムとどんな関係?」と振られてちょっとうまく説明できなかったんだけど、おれも結構ジャーナリズムにはあまり自覚ないままに恋い焦がれていたんだな…。

今年の最初に書いた文章を読んだら、改めてそう思ったよ。
ジャーナリズムとアクティビズム

いつか、ちゃんとジャーナリズムを学ぼうっと。

 


 

ゲストとしてご登場いただいた皆さま、ありがとうございました。
また雑談しようね!!

Happy Collaboration!

 

集団的実践としての未来 – 夢を真剣に受け止める

オリジナルはこちら


Bespokeのファウンダー、ニックが書いた『Taking Dreams Seriously: The Future As A Collective Exercise.』がとてもすばらしくて、みんなに読んでほしいと強く思いました。

フューチャーズ・デザイナーに。デンマーク文化を好きな人に。夢と未来を諦めたくない人に。

 

 

私は独裁政権下で生まれました。自分自身、あまりこのことをきちんと考えてきませんでしたが、時折こう思うことがあります。「幼少期の私の世界観は、好むと好まざるとにかかわらず、ジョージ・オーウェルが描いた<監視社会>要素の影響を受けざるを得なかったのだろう」と。

 

私の人生の最初の4年間は、チリにおけるアウグスト・ピノチェトの冷酷な独裁政権の最後の4年と偶然にも重なりました。まだ幼かった私自身がそこで特殊な何かを経験したわけではありません、しかしその後の数十年間におよぶ文化的、政治的、感情的な反動が、私自身を形作っていったのは間違いないでしょう。

 

私が「n」と「o」を組み合わせると「ノー」という言葉になるのを知ったのは、政権についての国民投票の際、首都サンティアゴの壁に並んで描かれていたその2文字を見たときでした。そしてもうこれ以上の軍政維持に「ノー」と人びとの声が響く中、チリに民主主義が戻ってきました。

 

ピノチェト打倒のキャンペーン・スローガンは「幸福がやってくる」でした。でも、幸福は実際やってきたのでしょうか?

 

私は90年代のチリで育ちました。楽しい時代でした。

 

失踪者、拷問、政治的訴追のチリではありません。

 

爆発的好景気、クレジットカード、ナイキスニーカー、MTV、自由貿易協定、そして17年以上閉ざされていたエキサイティングなグローバル化社会への扉。民主主義はその約束を裏切りませんでした。新自由主義もです。

 

私たちはその暮らしを愛しました。長く暗い投獄生活の後に初めて光を目にする人たちのように、私たちは差し出されるものなんにでもイエスと答えていました。すべてのものを剥ぎ取られた後では、それがなんであれ神からの贈り物のように感じるものです。ジャーナリストのナオミ・クラインは『ショック・ドクトリン』(惨事便乗型市場原理主義)とそれを呼んでいます。

 

チリの著名な経済学者のグループである「シカゴ・ボーイズ」は、ミルトン・フリードマンとアーノルド・ハーバーガーから直々に学んだことを完璧に実行しました。彼らは資本主義をパンパンに詰め込んだバッグを手に、イリノイからサンティアゴまで何千マイルも飛んでくると、世界の終わりにあるこの小さな国を住処としてそのバッグを開きました。経済的奇跡のスタートです。いかなるものもそれを止めはしませんでした。

 

そこには国が経験した大規模な集団的トラウマを乗り越える時間はありませんでした。疑問を呈する時間すら無いまま、かつての国営教育と医療制度は成長産業となり、国中のそこかしこに私立大学や私立病院が雨後の筍のように現れ、両手を広げ笑顔で人びとを迎え入れていました。もちろん、そのコストを喜んで支払える者たちだけを。

 

チリの夢はいきいきしていました。私たちの世代は、医療問題という犠牲と引き換えに、豊かな未来を約束する奇跡的な保険である高等教育という一生の恩恵を手にしたのです。

 

もっと買う、もっと借りる、もっと成長する。それが何であれ先進国になるのに必要とあらば。私たちは「ラテンアメリカジャガー」を名乗り続けたかったのです。それは無謀な資本主義のワールドカップでした。度を越していました。

 

直情的な成長レースが続く中で、私たちは明らかな危機の後に必ずすべき基本事項を忘れていました。それは、立ち止まり、真剣に考え、自分たちの進むべき未来の方向を定めること。共に。遠くへ向かう前に、すばやく進む前に。

 

自分たちがどんな社会を手にしたいのか、私たちはそれを夢見ることや想像することを忘れていたのです。新しい社会機構を組み上げるためには、互いの話しを聞き手を取り合うことが必要だったのに。私たちは、次の世代のためにどのような明日を築きたいのかを想像することを忘れてしまっていました。どのような文化や価値観を残していきたいのか、あるいは変えていきたいのかを、想像し議論することが必要だったのに。

 

私たちは夢を真剣に受け止めていませんでした。

 

私たちは、先進国となるために、貪欲で、個人主義的で、飢え渇いていました。もっと良くなりたい、もっと良くしたい、もっと良いものを所有したいと。

 

しかし奥底では、集団的な方向性を欠いていることに気づいていました。私たちを団結させる共通の夢も高い目標もそこにはありませんでした。金持ちはもっと金持ちに、そして貧乏人はもっと貧乏になっていきました。

 

経済的成功が私たちの社会の繁栄の鍵であり、そのための決定的な手段であることは間違いありません。しかし、それは繁栄のすべてを表すものではありません。

 

経済的成功だけでは、私たちは集団として団結することはできません。幸福や満足を促進し、私たちの間の社会的一体感を強め、進むべき方向性やその意義を見出すにはそれは不十分なのです。

 

誰が他者を気にかけるのでしょうか? 次世代と、彼らがどうにかして共に暮らさねばならない汚染を誰が気にかけるのでしょうか? ほんのわずかな大企業のために完全に破壊され尽くされる原生林、海、氷河、生態系を、誰が気にかけるのでしょうか?

 

私の問題じゃない。まだ違う。

 

高校生のとき、何らかの理由でクラス全体が大騒ぎとなったことがありました。先生の一人が怒り、「君らは独裁政権の子どもたちだ!」と私たちに怒鳴ったのを覚えています。長年の抑圧と欲求不満に深く傷ついていた彼の精神と、私たち高校生の無邪気なそれとは対照的でした。私たちには理解できませんでした。独裁とは、目に見えるものや定量化できるものだったり、特定の人たちの恐怖だったり、悪意に満ちた巻き添え被害だけを意味するのものではなかったのです。

 

私は運が良かったのかもしれません、自身が肉体的に軍事体制の残忍さの餌食となることはありませんでした。しかし専制政治は私を育てた環境を作り出したものであり、数十年後にその爪痕を私たちの世代に浮き上がらせたのです。

 

それは砂漠の蜃気楼のように人びとを目先の利益に血眼にさせました。そして自らが課した物質主義的な生き方は、遅かれ早かれ恐ろしく高額な請求書を私たちのテーブルに持ってくることでしょう。

 

チリ以外のあちこちでも、不可逆的に狭窄された認知構造と持続不可能な社会的枠組みを目にします。私たちはただのモルモットに過ぎませんでした。グローバル経済社会と政治的景観は数十年にわたりそれらに支配され続け、地球と特権を持たぬ人びとを犠牲にすることで、歴史上これまでにない快適さと進歩を人間にもたらしてきました。このパラドックスは理解し難いものです。しかし良くも悪くも、ついにその亀裂が現れ始めています。

 

いいえ、なにもビジネスを糾弾をしようというわけではありません、誤解なきよう。私も事業を営んでおり、世界中の企業や組織と協力している身です。その意義によりビジネスが人びとを行動へと導くとき、ポジティブな影響が個人やコミュニティーを花開かせることがあるということを、私も自らの身をもって理解しています。しかし、経済的成功の追求のために人類の幸福と生態系の健康を犠牲にすることには、疑問を呈せざるを得ません。そんなものは無意味なラットレースに過ぎない。

 

深く根付いた個人主義と果てしない成長、この2つは相反するパラダイムと捉えられていますが、世界に名高いデンマーク集団主義的アプローチによる生活は、それを実現しています。私はデンマーク人の中で暮らしてきたこの10年間で、それを身につけることができました。

 

デンマークは世界で最も幸せな国の1つであると言われており、その評判はこの地での私たちの暮らしを適切に表しています。「でも、デンマークは世界で最も抗うつ薬の消費量が多い国の1つですよね」 — その通りです。最も幸せな国であっても問題のない場所などはなく、デンマークも例外ではありません。一般論として語ることにはリスクがあります。しかしそれを承知で、私は「ほとんどのデンマーク人たちの間には、可能性を信じる感覚が共有されている」と言うことができます。私たちは信じているのです。組織が私たちを支援するためにあることを、私たちが互いを支援しあうことを、そして社会をより良いものにしていこうという強い信念を自分たちが持っていることを。そしてしっかりと心を向ければ、それが何であれ私たちは達成することができると。ビジネス、行政、市民の生みだすものにより、必ずいつか到達することができると。

 

部外者の視点から見て、デンマーク人が信頼することを教育されてきたことは明らかです。制度や機関を信頼し、お互いを信頼します。しかし最も重要なのは、自分自身を信頼することです。

 

機会均等の原則に基づき、市民の経済的および社会的幸福を保護および促進するという福祉国家の約束は、デンマークとその近隣のスカンジナビア諸国でしっかりと生き続けています。そして大方の予想とは裏腹に、その約束は経済自由度指数においても地球上で最も高い値を示しています。冷戦後の両極体制が頭に染み付いている人にとっては、不可解な矛盾と映ることでしょう。

 

デンマークはヨーロッパで最も古い州の1つで、世界最古の王国の1つとも言われています。おそらくは、集団的会話という特性も新たな出来事ではなく、多くの人びとの意識には上ることがないままに、何世代にも渡りゆっくりと培われてきたのでしょう。煮込み料理には時間が必要です。必要なのは、何よりも強い忍耐力です。そして対話は煮込み料理に最も欠かせない材料なのです。

 

民主主義政治への積極参加もデンマークの特徴です。投票資格のある人の約90%が、投票日には意見を表明しに向かいます。何かを変えたいのであれば、自らを無関心と受動性に支配されることを良しとせず、集団的エンパワーメントによる意思表示が必要です。

 

この一貫した集団的対話と共有された帰属意識がやがて行動として現れ、その行動が時間の経過とともに文化となっていきます。こうしてデンマークは可能思考を育み、自身と周囲を変化させるのは自分たちであるという、自分たちの能力と義務への確固たる信念を育む文化を生み出したのです。これは簡単なことではありません。

 

より良い未来に対する人びとの信頼は、社会の命運を決定する力を持っています。未来とは、本質的に集団的実践なのです。

 

親友のピート・シムズが以前言った言葉が、今も私の中に刻まれています。「希望とは行動の前提条件ではなく、行動の結果だ。想像することなくして行動は起こらないし、行動なくして希望が生まれることもない。

 

そのすべての成功とチャレンジをかけて、デンマークは異なる未来を想像しようとしています。もっとクリーンなエネルギー、男女の機会均等、そして何よりも人間の幸福を促進するライフスタイル。デンマークは大胆に夢を見ます。

 

未来を夢見ることができるということは、それ自体が希望なのです。意思を宣言するとき、私たちは今はまだ存在していない未来とつながります。そしてその宣言が、私たちをそこへと歩み出させてくれるのです。

 

かつて大聖堂の建設は、莫大な尽力を要するその大規模さゆえに、完成までに数十年あるいは数世紀かかることもありました。その土台を造っていた人びとは、自分たちが命あるうちにその全容を目にすることがないということを理解して取り組んでいたことでしょう。大聖堂的思考とはそれと似たもので、今日の取り組みが花開き実を結び、その恩恵を目にすることができるのは次世代になってからであるという考えを基にしています。

 

30年の月日を必要としましたが、全土にわたる数カ月にもおよぶ社会不安と大規模な反政府デモの後、2020年10月チリは大胆に夢を見ることを選び、未来に向け新たな大聖堂の建設を始めました。

 

憲法改正の是非を問う国民投票で、あらゆる年齢、社会階級、経歴のチリ人たちが改正賛成に圧倒的な支持を表明し、あらゆる分野から選出された市民グループによる憲法起草を求めました。

 

完全にまっさらなスタートです。

 

自国にとって望ましい未来がどんなもので、その追求を導く原則が何なのか。それを決めるのには、長く激しい対話や白熱した議論を避けては通ることはできないでしょう。それは困難で不確実で辛く恐ろしいものとなるはずです。しかし、それこそがまさにピノチェットが権力を離れたときに起こるべきことだったのです。

 

未来実践家として、私はこの集団的プロセスと社会的実験の結果の目撃者となることに興奮しています。国全体としてそれを行うことができるのなら、私たちが異なる現実を追い求められない理由などあるはずがありません。

 

繁栄を手にするには、私たちはどんな精神的独裁政権を打ち倒す必要があるのでしょうか?

 

私たちには、夢を真剣に受け止めねばならないときがあるのです。

 


 

 

Text: Nicolas Francisco Arroyo
Director of Foresight & Founding Partner at Bespoke Copenhagen

Translate: 八木橋パチ

Happy Collaboration!

 

雑談と対話(と多様性と民主主義)

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半月ほど前、『民主主義は雑談に支えられている(冬のフォルケ総括その2)』にこんなことを書きました:

「行動は外部から見えやすいけど、そこに至るプロセスは行動だけでは見えない。」
「相手と自分の『一線』がどこにあるのかを認識しあうには対話が必要。」

ここ2〜3週間、ほぼ毎日誰かと「雑談と対話」のことを雑談しています。そんな中で自分の中から出てきたものをまとめておきたくなりました。

 

 

 

■ 雑談と対話をたゆたう

ところで、「対話しない?」って呼びかけって結構重くないですか? なんか「覚悟」とか「準備」とか必要そうで、気軽にスタートできなそう。

「対話の潤滑油が雑談」と前に書きましたが、今は「雑談と対話はそんなにはっきり分けられるものじゃない」って気がしています。その混じり方にはいろんな形がある。

そしてもっと現実的な話をすれば、雑談と対話を分ける必要も理由も存在していないんじゃないかな。

 

 

雑談と対話は行ったり来たりするもの。ゆるゆると混ざったり急速に分離したりするもの。

そう考えれば、相手が「対話を求めている」とか「対話好き」とかはっきり分かっているとき以外は、「対話しない?」よりも「雑談しない?」って呼びかけの方が良くないかな。

ほとんどの場合、こちらが対話を求めていて、そういうスタンスで話しをすれば、雑談は対話へとつながっていくと思うから。

 

 

対話へとつながる良い雑談には、次の3つの「そういうスタンス」がある気がしています。

・ そこに自分がいること – 自分ゴトとして話す

・ 相手の隣に並ぶこと – 留保しながら五感をすませて聴く

・ 相手にも自分に触れる – 理屈も感覚も言葉にする

 

 

■ 良い雑談スタンスその1
そこに自分がいること – 自分ゴトとして話す

世間話でも他人話でも、話している中身はまあなんでも構わないんだと思います。ただ、そこに「話し手」がいることが大切なんじゃないでしょうか。

世の中のことでも、誰か他人のことでも、ただの伝聞として話すのではなく、自分がなぜその話をしたいのか。なぜそれに興味・関心を持っているのか。自分がそこに何を見るのか。

 

 

自分という人のカケラや自分の物の捉え方の尻尾みたいなものが、そこに存在していることが大事だと思うのです。

あ、「熱く説き伏せよ」とか「つねにマジメであれ」ってことではないですよ。
ちゃんと自分自身がそこにいるようにようしようよってことです。

 

 

 

■ 良い雑談スタンスその2
相手の隣に並ぶこと – 留保しながら五感をすませて聴く

時間を共にして交流するのだから、双方にとっていい時間な方がいいですよね。自分か相手か「どちらかだけにいい時間」で終わってしまえば、おそらく次はないでしょう。

相手と自分が何が同じで何が違うのか。それが分かれば自分のことがもっと理解できるし、相手のことも分かる。そのためには、もっと相手の深いところから出てくる感情や言葉を聞きたい。
— そう思って話を聞いていれば、相手の言葉を条件反射的に自分の判断で打ち返したり、表面的に分かったような振りで聞き流したりすることはなくなりますよね。

 

 

「ちゃんと相手の話を聞く」っていうのは、判断を少し後回しにして、相手の考えや思考のプロセスを訊ねるってこと。
言葉にしずらかったり、言葉になっていないところもあるんじゃない? って聞いてみよう。

 

 

 

■ 良い雑談スタンスその3
相手にも自分に触れる – 理屈も感覚も言葉にする

相手の隣に並んでしっかりと目も耳もすましていれば、相手の言葉がはっきりと聞こえてきます。でも、はっきり聞こえるからといって意味がすぐ分かる訳ではないですよね。むしろ「どこか違和感がある」だったり「何か違った感情がわき上がる」ということもあると思います。

そんな風に自分の中から感情や言葉が浮かび上がってきたら、相手の考えや感情を大切にするのと同じように、それも大事にして相手に伝えてみます。
それが、自分をより「そこにいる」状態にすることだし、より相手の「隣に並ぶ」ことだから。

 

 

こうして雑談をすることで、相手と自分の物事の受け止め方や判断の、違いの「一線」がどこにあるのかを認識しあえるようになります。

そしてその一線の「現れ方」を一つでも知ることで、相手の行動や決断を目や耳にしたときに、そこに至るプロセスに思いを馳せることができるようになります。自分にとって大事な「一線」が現れてきたときには、それについて雑談(対話)しやすくなります。

 

 

これが「相手を知る」ってことじゃないかな。

「違い」をざっくりと見るだけじゃなくて、本当に違う部分を狭めていく。そうすると、お互いが「まあいいじゃないか」って、白黒つけずに実はグレーのままで構わない「当事者判断でOK」という部分が広がっていく。

今よりも相手を知ることで、お互いの違いの中で「折り合い」をつける方法を探りやすくなります。

こうしたプロセスなしで「多様性が大切だ」と言っていても、多様になるのではなく細かくバラバラになるだけな気がするんですよね。

 

 

最初はこの後、「雑談が民主主義にグレーを差し込み拡げる」「多様性が多様性のままであるために」って、ここから多様性と民主主義の話まで書くつもりだったんだけど、息切れした…。

そんな話はまた今度、たくさん雑談してから書くこととしますね。

Happy Collaboration!

Bespokeのフューチャーズ・デザインが今こそ必要なわけ

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今日から3カ月ぶりのFutures Design Workshopがスタートします。

気合いを入れなおすために、なぜ今Bespoke流の<Futures Design>が必要なのかを書き出してみました。

 

 

未来志向

現在の「市民・生活者」を中心に据え過ぎると、「未来の市民・生活者」が置いてきぼりにされてしまいがちだから。

現在可能なことやすでに存在していることに重きを置き過ぎると、「未来の可能性」を過小評価してしまったり、それに意識が届かなくなってしまうから。

 

 

地球/環境志向

現在の「環境」を中心に据え過ぎると、「未来の地球」が置いてきぼりにされてしまいがちだから。

大量生産〜大量消費〜大量廃棄というリニアな生活や構造から脱却し、サーキュラーで持続可能な構造やスタイルを追い求めるものだから。

 

 

社会課題解決志向

多くの人びとの共感を得ることで解決対象と解決方法を拡げることができ、社会的インパクトを高めることができるから。

STEEPV((社会(Social)、テクノロジー(Technological)、経済(Economic)、環境(Environmental)、政治(Political)、人々の価値観の変化(Values))というフレームワークで課題に新たな光を当てることができるから。

 

 

人間志向

好奇心、積極性、オプティミズムを持って関係者とコラボレーションすることで、組織内外の支援者を増やすことができるから。

異なる価値観の存在に気づき、それを認めあい受けいれあいながらそれぞれの価値観を磨いていくことができるから。

 

 

可能性拡大

まだ生まれる前の未来市場での優位性を確立しにいくことで、ビジネスと組織の持続性を高めることができるから。

自分たちが欲しているもの、大切にしているものの根源を見つめ直すことで、その発展方向性を広く大きくできるから。

FunやSurpriseの体験や五感を使うことを重視し自分たちの可能性を十二分に引き出せるようにされているから。

自分自身の考えや感性を前面に出すことで相手の考えや感性を引き出し、現状打破のための突破力(情熱)を高めることができるから。

 

 

オリジナリティー

Situate、Search、Sense、Scale という4つのフェーズから成る「発散と収束」の繰り返しにより、未来と現在の距離を近づけることができるから。

未来洞察というリサーチ手法を軸に望ましい未来への道を見つけ出し、デザイン手法というデザイナーのマインドセットと道具でその道を整備する、他にはないアプローチだから。

自分たちが何者でありたいのか、何者にはなりたくないのかを問い直すことで、より一層他と一線を画することができるから。

自身を突き動かす好奇心や興味を無視したり押し殺したりすることなく、それをプロジェクトの大きな流れに組み込むことができるから。

 

 

チームビルディング

枝葉やディテールではなく、上位概念と現状について関係者がしっかりと対話し、一緒になって作り上げていくため一体感があるから

北欧型の「ディープ・デモクラシー」を基盤とすることで、一見相反する価値観や異なるスタイルをも受け入れ、誰も取り残さずに持続性を高めることができるから。

制度やルール、肩書きや立場で「しばる」ことなく、誰でもいつでもプロセスに変化を起こせる自由があるから。

 

 

実践的

ビジョンをアクションに変換し、アジャイルに社会実装とスケーリングを繰り返し続けられると同時に、ピボットのタネも常に見つけられる手法だから。

Learning by doing(ラーニング・バイ・ドゥーイング)の考え方に則り、初心者から熟練者まで、やればやるだけ新たな発見やアプローチを手に入れられるから。

理論と実践を行き来しながら、そこに自分たちの気づきやこだわりを簡単に入れ込めるカスタマイズ性の高い手法だから。

 


 

 

「それで一体、BespokeのFutures Designってなんなの?」>ってなりますよね?

近いうちに改めて今の自分の言葉で言語化してみようと思っていますが、それまではこちらのリンク先をご覧ください。

・ 【レポート前編】デンマーク発・未来を創造する「Futures Design」ワークショップ

・ Amazonにて発売中です『フューチャーデザイナー・ブック – 未来を創る方法論と実践方法 -』

 

 

Happy Collaboration!

民主主義は雑談に支えられている(冬のフォルケ総括その2

オリジナルはこちら

 

11月の中旬、北海道のど真ん中にある東川町という人口8,000人強の町で、10数人の仲間たちと8日間一緒に過ごしてきました。

その期間の前後は、こちらのブログからちょっと離れてnoteにわしゃわしゃと書き綴っています。先日<北海道東川町のステキな人たち>と<2020年冬のフォルケ with Compathと仲間たち>という2つの「マガジン」を作ったので、よかったら読んでみてください。

 

 

 

■ 北海道東川町のステキな人たち

「雇用を守ること。お客様を守ること。環境を守ること。」に真摯に取り組んでいる、株式会社丸巳 矢澤農園代表の矢澤 教祐さん。

「人間や環境にとって有害な工法や物流・商流にNo。」を貫き通すために考え続けている、北の住まい設計社さん。

「街を消費させない。食をサーキュラーに。自由を守る。」ために、実践を続けながら人びとに問いかけ続けているファーム・レラの新田夫妻。

「力不足のところはあるだろうけれど、今この町に住む町民たちのことを誰よりも考え抜いているという自負はある」と力強く言われた、東川町スタイル課 菊地さん。

 

 

みなさん、本当にありがとうございました!
こちらのマガジンでは、4人の「現場でずっとずっとやり続けている人たち」のことを書いています。

皆さんの話を聞き「自分がコミットできる町を持っているのってステキだな」という、これまで一度も思ったことがなかったことを感じさせてくれるものでした。

おれも「自分にとっての東川町」をゆっくりと探してみようかな。

 

 

■ 2020年冬のフォルケ with Compathと仲間たち

こちらのマガジンには、東川町で感じたことを「ステキな人たち」以上にもっとぐちゃぐちゃ雑多に詰め込んでいます。そして、勝手ながら8日間を共に過ごしたあおいさんtsuruppoさんReikoさんのnoteも混ぜちゃいました。

一応、おれなりの総括的なことを「民主主義と余白と内側にある問い」に書いています。

 

 

ただ、先日のデモクラシーフェス2020賛同企画 ぱちはらダイアログ Vol.16 「民主主義とデモクラシー」で、原さんに「なにが良かったの?」とポンっと訊かれて頭に浮かんだのは「集団生活と集団行動」、そして「雑談と民主主義」でした。

というわけで、ここから「総括その2」的なものを。

 

 

■ 集団生活と集団行動

おれはコロナ後のこの数カ月、「家族」と「友だちとおれ」以外の「コミュニティー感」はほぼ感じることなく暮らしてきました。

そんな中で、東川町での8日間は、「ワーケーション + フォルケホイスコーレ(北欧の寮生活型大人向け人生の学校)」という過ごし方で、空間や空気感を長期間にわたって共有する生活は新鮮でした。

 

 

ただ、思い出してみれば、昨年の2月にもデンマークのロラン島で10人ほどで5泊6日の共同生活を行っているんですよね。
でもあのときは「テーマを決めた対話」というのは少なかったんですよね。「料理」というやるべき共同タスクが目の前にあり、それ以外の時間はただただリラックスした会話を楽しんでいた感じ。

それに対して今回Compathの2人は「内省と対話」を常に求めてきました。そのおかげでかなりの頻度で「矢印が自分の内側へ向かう」んですよね。

その時間が、おれにとっては「(自分を含む)集団」について考える時間へとつながることが多かった気がします。

 

 

当たり前のことですが、集団の規模が小さければ小さいほど、自分がその場に及ぼす影響力が大きくなります。「積極的に協力しない1人」が3人の集団にいるのか30人の集団にいるのかを考えれば分かりやすいですよね。

今回の「ワーケーション + フォルケホイスコーレ」という形態では、基本的には日中は一人ひとり別々に仕事をしているので、物理的に時間や空間を共にする場面はさほど多くありません。
仕事の状況次第で長めに休憩をとって一緒にお昼を食べに行けることもあれば、1人でサクッと部屋で済ますこともありました。

 

 

だからこそ、自分が集団の一員となれる朝ごはんとその後のアクティビティ、夕ご飯とその前後のセッションの時間がおれにとっては愛おしくなっていきました。

日が進むにつれ、みんなといるときは「自分に提供できるものが何なのか?」を考えることが増えていったし、1人になると「提供するに足る自分で在り続けるためには?」みたいなことを考える時間が増えていった気がします。

これは、1人の時間と集団の「時間の量」と「切り替わりのタイミング」が、おれにとってはとてもバランスの取れたものだったからじゃないかと思っています。

 

 

自分と集団が、いい感じで「分離しながらも地続き。」みたいな。

 

 

■ 雑談と民主主義

・ 行動や決断 | その人の表層や形状という外界に面している外殻を示す
・ 雑談や対話 | その人を構成している中にあるものや外殻の成り立ちを伝える

行動が示すものって、その人自身よりもその人がまとっている役割だったり立場だったりする気がします。それに対して雑談って、思考であったり生き方であったり、より「その人自身」の本質に近いものを伝えるものではないでしょうか。

いわば、その人の中にあるウェットなものが外殻に染み出てくるのが、雑談や対話であり、それを通じて人はもっと理解し合えると思うのです。

 

 

表層が乾いてザラッと、あるいはツルッとしているときよりも、粘り気や湿り気が浮き出ているときのほうが本当の生き物って感じがしませんか?

おれの場合は、無生物的なものよりも有機的で命を感じさせてくれるものの方が愛おしく感じます。認めたり受け入れたり許し合えたりできる相手のように感じます。

 

 

それぞれの違いを「違うままで良い」と思えること。相手と自分の「一線」がどこにあるのかを認識しあい、「認め合ったり許し合ったり」すること。そのためには対話が必要で、対話の潤滑油が雑談って感じですかね。

雑談でシャッフルして対話で混ぜる。

 

 

分断して排除し合うのではなく、同じ時間と場所を共有しながらも「だれもが本当の自分自身でいる」という状況を生み出す。

それが、おれが大事に思っている民主主義であり、それを育てていくってことなんじゃないかなあって。

 

Happy Collaboration!

ぱちはらダイアログ11〜15

オリジナルはこちら

 

 

「民主主義」をメインテーマの1つに掲げて打ち合わせなしでトークする「ぱちはらダイアログ」も早いもので先日15回目を終えました。楽しいものは続くもんですなぁ。

第11回から「ゲストは女性」というシバリを取っ払いました。そして人数も2人になったり、またオフラインでの対面型も復活させたり…。
というわけで、最近5回を振り返って、ゲストで来てくれた皆さんに愛の告白をしたいと思います。

 

 

■ 民主主義とUX | ぱちはらダイアログ11(200831)

ゲスト: 坂本貴史さん

https://www.youtube.com/watch?v=ffa1-i9y8vM

 

15年くらい前、「ウェブサイト」というものを断片的にしか捉えられていなかったおれに、プロとしての統合的な捉え方を教えてくれたのが坂本さんです。

そしておれにとっては、最初の「疑問をストレートにぶつけることができる、身近に存在するデザイナー」だった気がします。デザイナーというのは、そしてアーキテクトというのはこういう風に物事を捉え分解し再構築するのだなぁというのも身近で見せてもらいました。「何でもかんでも表層的な部分から安易に捉えちゃダメなんだよ」って、教えてもらった気がしています

 

 

そんな坂本さんとはたまーにポツリポツリと会ったり話したりしていたのですが、今回続けざまに、まずは坂本さんホストの24時間ライブ配信マラソンに出させていただき、続いてぱちはらにゲストで来てもらいました。

坂本さんとの対話はいつも余韻が大きくて、今回も終わった後「なんでなのかな? 」って考えたんだけど、やっぱり坂本さんは実践者なんですよね。

おれなんかが「こうあった方が良くない?」と頭でっかちに考えがちて考えを語るのに対して、その考えに影響を受ける側の立場にしっかりと立脚し考えをすすめる。だから発言に深みがあって、自分の認識や発言を再考させる力があるんだと思う。

 

 

…ってこれ、まさにデザイナーであるってことじゃないですか!
やっぱり、坂本さんはおれにとってはデザインの師匠です。

 

 

 

■ 民主主義とバイオフィリア | ぱちはらダイアログ12(201122)

ゲスト: parkERsの梅澤さん

 

「そろそろ、久しぶりにオフラインでぱちはらやりたいなぁ」と考えたとき、最初に頭に浮んだのが梅澤さんでした。原さんと梅澤さんをつなげたいって気持ちもあったし、parkERsが手がけたグリーンたっぷりな場所を身体が求めていたし。

そんなわけで3月以来のparkERsオフィス訪問でした。ほんと、いつ行ってもリフレッシュできるわぁ。

ダイアログの中でもparkERsオフィスの話が何度か出ていますが、以前レポートも書いていますのでよかったらこちらもどうぞ。

自然とテクノロジーでオフィスを公園に! | parkERs南青山新オフィス内覧会レポート

 

これまでいろんなところで言っていることだけど、parkERsって本当に「やり切る力」が高い組織です。

「公園の心地よさ」をあちこちに再現し続ける。何十人という組織規模になっても妥協せず、ときにしたたかに東京のど真ん中でもやり切る。それをどんどん発信し、実体経済をもどんどん動かしていく。
— 自然との共存という理想の姿と、組織の在り方における理想の姿と、おれにとっては夢のような世界を現実にしているのがparkERsです。

梅澤さん、これからもいろいろコラボさせてね!!

 

 

 

■ 民主主義とジェンダーギャップ | ぱちはらダイアログ13(201109)

ゲスト: あすなさん

https://youtu.be/2I7luXheTwo

 

 

あすなさんとはこの放送の前日に初めてお会いしました。

旦那さんと2人の小さなお子さんと一緒に家族4人でフォルケホイスコーレ・ショートコースに参加されていて、原さんがジェンダーについてちょっと話を聞いてみたら「めっちゃおもしろかった!」ということで、ぜひお願いしますということで急遽ダイアログにご登場いただきました。

性教育は人権教育」という視点は、あすなさんと話して今回初めて考えたことでした。そしてとても腑に落ちました。

 

 

ところで動画を観てもらえば分かると思うけど、あすなさんはすごく学ばれている方です。これだけのジェンダーや人権に関する知識を持って、子育てを実践されている人がすぐ近くにいることに、とっても嬉しくなりました。

そして喋り方と声がとても優しくて力強い。そして話が分かりやすい。解説するお仕事、向いてそうだなぁ…なんてことも何度か頭をよぎりました。

あすなさんとは何かを一緒に手がけてみたいなぁ。ぜひ長いスパンでこれからもゆるっと付き合ってください!

 

(12月14日編集) Youtubeにアップロードできたので、リンク先変更しました!

 

 

■ 民主主義とコンパス | ぱちはらダイアログ14(201111)

ゲスト: Compathのかおるさんとやさいさん(遠又 香さん & 安井 早紀さん)

 

ぱちはらダイアログ最初のゲストだったかおるさん(第2回放送はこちら)に再登場していただき、北海道東川町でフォルケホイスコーレを開いているCompathとして、やさいさんと一緒にお話してもらいました。

今回、Compathの8日間のフォルケホイスコーレ・ショートコースにおれと原さんは参加していて、この日はその4日目の夜でした。

 

 

実は、この日のこのトークあたりからおれの中で、この2人へのリスペクトがどんどん強くなっていきました。

それまでも「やーすごいなー」とは思っていたけれど、ちょっと質が変わった感じ。なんと言うか、「この2人だったら、やりきって世の中変えちゃうんじゃないの?」って本気で思えてきて。

この2人と友だちでいられることが嬉しいし誇らしいし、2人の前で堂々としていられるよう、おれも頑張ろうって思ってます。

 

 

 

■ 民主主義と出版 | ぱちはらダイアログ15(201122)

ゲスト:廣畑達也さん(ダイヤモンド社編集者)

https://youtu.be/So_GmXAlc88

東川町から帰ってきて最初のゲストは、ソーシャルイノベーション社会起業家関連の本を多数編集されている廣畑さんです。おれはチャットではやりとりしたことはあったんだけど、顔をみながらお話するのは初めてでした。

お話を聞き、社会起業家以外にも脳科学や行動社会学、自然科学などの分野でたくさんの本の出版に関わられていることを知りました。おれにとっては「どれも、民主主義を考え実践する上で大切な分野ばかりじゃん!」って感じの分野です。

 

 

こちらのページに、これまでに担当された作品の一覧が公開されていました。おれ、結構な愛読者かも? 並んでいる67冊の中に、これまで読んだ本が7冊ありました。

今回の話の中で、「本は一番深く刺さるメディア」という廣畑さんの言葉がありました。とても強く同意します。

おれは本を「作者との対話」だと思っていて、いい本を読んだ後はとても良い対話をしたような気持ちになります。音楽も映画も絵画も写真も、どれも強いメッセージを投げかけてくるけど、どれもおれはそれを「受け取っている」という感覚になります。

でも、本に関しては、自分の受け止め方を本に向けて返しながら読み進めているような気分になるんですよね。なんでかな?

廣畑さんの本をテーマにしたイベントとか、そのうち企画させてもらいたいです!!

 

 

 

さて、ぱちはらダイアログ#16はどなたに来てもらおうかなぁ?

Happy Collaboration!

アルゴリズム統治かDIYによる格差解消か | 先進テクノロジーが実現すべきビジネス(その3)

オリジナルはこちら


これまで2回にわたり、世界的なビジネスの潮流が社会課題の解決、とりわけ気候危機と経済的不平等解消へと向かっていくことを論じてきた。今回は、その中で重要な鍵を握るデジタルデータの占有と共有について考えてみる。

 

 

「DXだデジタル・ビジネスだと世間は騒いでいるが、結局はGAFAに代表されるデータ所有企業たちが勝者総取りをするようになっただけじゃないか。デジタル変革は、強欲的資本主義とゲゼルシャフトが幅を利かせ過ぎている世界を変えるどころか、格差社会地球温暖化をむしろ前進させている!」と思われる方も少なからずいらっしゃることだろう。

たしかに一理ある。

 

 

だが、それはこの瞬間の断面に過ぎず、今が大きな変化の潮目なのではないかと筆者は見ている。

なぜなら、コロナ禍やアメリカ大統領選などの陰に隠れがちだが、米公聴会でのGAFAへの反トラスト法違反疑惑の追求や、EUにおける各社へのタックスヘイブンによる税金逃れへの追求など、人びとの声に押される形で政治は次の流れの「入り口」に立ち始めているからだ。

少なくとも、データとそれが生み出す利益の再分配を、人びとが注視し始めているのは間違いないだろう。

 


■ データは相手の首根っこを掴む21世紀の「石油」

「データは新しい石油である」という言葉を耳にするようになったのはいつからだったろうか。改めてそれが示唆するものを考えてみよう。

20世紀、石油は、産業の基盤となる電力源の中心となり、さらに車や電車、飛行機などの人とモノの移動を司り、さらに化学繊維や農薬、プラスチックなどの原料としてさまざまな分野を牛耳った。

そんな社会においては、当然のごとく垂直統合型のビジネスモデルが幅を利かせ、「規模の経済」が完成していった。そして規模経済の源泉は石油となり、原油とその価格変動がビジネスの首根っこを掴むようになった。

 

 

そして21世紀の今、新たに君臨しているのがGAFAをはじめとしたデータ中心ビジネスだ。20世紀の石油に取って変わり、新しいビジネスモデルは情報とその解析の組み込みから生まれ続けており、その先頭を走る企業が巨大化を続けている。

データが、それを持たない企業の首根っこを掴むようになっているのだ。そしてその”油田”の中心から、世界の所得格差や社会格差の拡大は広がり続けている。タックスヘイブンやさまざまな手を駆使した、税金という社会の所得再配分システムを逃れることで。

 


■ 格差の広がりと再公営化の流れ

ここで、格差の広がりが近年どのような動きを引き起こしたかを見てみよう。シリーズその1で、以下のように書いた。

ここ20年、市場原理主義により拡大し続けてきた格差と、少なからずそれが引き起こした人口や資本の集中化、そして気候変動という現象に対する「新しい経済モデル」の在り方について、多くの方との対話や意見交換につながることを願っている。

 

 

市場原理主義は、低福祉低負担、自己責任をベースとした小さな政府を標榜し、多くの公共サービスや福祉が民営化されていった。その結果、公共・福祉の多くはひどく弱体化し、その一部は破綻した。

それが顕著に現れているのが、いわば都市集中の”供給源”とも呼べる「地方」だ。

日本はその国土の7割が傾斜地や山林からなる中山間地で、全人口の2割がそこに暮らしている。労働力不足、移動困難、医療難民、後継者不足、地域経済の消滅、コミュニティの消滅…。地方が、挙げていけばきりがないほどの困難に見舞われているのは周知のとおりだ。

 

 

それでは海外はどうだろう。上下水道やゴミの収集・処分、鉄道や郵便などの地域住民の生活を支えるサービスや事業が、小さな政府のかけ声のもとに弱体化してしまい、地域住民の生活を支えられなくなってしまったのは日本と同様だ。

違いは、そこからの復興にある。

フランスのパリ市やスペインのカタルーニャ地方、ドイツのベルリンなどでは水道水の再公営化が実施され、生活環境レベルの向上だけではなく、雇用の創出などによる地域経済の再興を進めている。ヨーロッパだけではない。電力や交通の再公営化がウルグアイやアルゼンチンなどのラテンアメリカで、インドや北米での教育や医療の再公営化なども進んでおり、多くの成功事例が次々と生まれている。

 

 

なお、こうした世界の再公営化の流れは国家よりも自治体主導型のものが多く、「ミュニシパリズム」と呼ばれるムーブメントとの結びつきも強い。

 

参考: 再公営化の最前線発表~アムステルダム市と「公共の力と未来」会議~(岸本聡子)

 

 

■ デジタル・レーニン主義アルゴリズムによる統治

上記の再公営化へとつながる流れと、データ中心ビジネスは直接的なつながりはない。だが「格差の広がり」が市民や自治体主導の取り組みを後押ししたことは間違いない。

そして今、データ経済の進展に伴い、「新たな油田」の近くで別の問題も広がりを見せている。それがアルゴリズムによる統治であり、その最たる例が「デジタル・レーニン主義」だ。

 

 

デジタル・レーニン主義は、共産党一党支配が続く中国をその震源地としている。概要をかいつまんで書くと、こういうことだ。

中国政府は、母体を中国に置く企業が有するあらゆるデータを、労なく手にすることができる。アリババ、テンセント、バイドゥなどに代表される多くの中国テクノロジー企業が、利便性や安全性を提供するという名目でプライバシーと自由を政府に手渡し、共産党政府の考える「人民としての正しい行い」を一緒に推進している。

 

 

なお、ここ数カ月話題となっているTikTokアメリカやインドでの活動停止やファーフェイ製品の締め出しも、根本にあるのは「母体を中国に置く企業へのデータ提供」のリスクである。すぐに頭に浮かぶのは国家安全保障だが、それ以外にも通商における悪用や、香港や台湾などの地政学的問題への濫用など、データを中国に握られることに脅威を感じるのは当然と言えるだろう。

そしてここでは中国の対アフリカ援助が伸び続けていることと、中国製のスマートフォンがアフリカ市場を席巻していることも付け加えておく。

 

 

もう一つ、中国とは無縁のアルゴリズムによる統治の話題を紹介する。今年5月、グーグルの親会社であるアルファベットが正式に開発計画の断念を発表した、トロントのスマートシティ計画だ。

詳細は下記の参考記事に譲るが、失敗の最も大きなポイントはコロナ禍における財政上の問題ではない。対象地区の当局者や地域住民たちの、民間企業の支配下に生活が置かれることへの不安が、プライバシーの商業利用と監視社会への恐怖がその中核にある。

つまり、アルゴリズムによる統治への不信だ。

 

参考: トロントのスマートシティ計画はなぜ失敗したか?――文明評論家・リフキンが示す、官民提携ビジネスモデルの課題

 

 

今後、ビジネスと地域統治の問題に直面することとなるだろう。

デジタル・レーニン主義は、震源地の中国からアフリカをはじめとした世界へと広がり続けている。

 

 

 

東京電機大学IBMによる「デジタル・ビレッジ・プラットフォーム」

シリーズ「先進テクノロジーが実現すべきビジネス」の最後に、筆者も関係しているDIYで地域課題解決をするためのデータ流通プラットフォームの取り組みを紹介する。

今年春、日本IBMは、東京電機大学(TDU)とエクスポリス合同会社と共に下記リリースを配信した。

 

地方創生の推進に向け、地域の取り組みを連携させるIT基盤の実証実験を開始 | データ流通プラットフォームと地域課題流通マーケットプレイスを構築 

 

 

行政と企業と大学や研究機関が協業した地方創生への取り組みは珍しくなく、この数年間に何度となく目にしてきた。だがこの取り組みの最大の注目ポイントは、地域住民が中心に置かれたDIY型であることだ。そして企業だけではなく、地域を応援したい個人が関係人口として持続的に仕組みに加われることにある。

課題解決ソリューションの開発や供給を行うデータ流通プラットフォームである「DVP(デジタル・ビレッジ・プラットフォーム)」には、産業構造や人口動態、地域の人の流れや消費などの官民ビッグデータを集約した地域経済分析システムである「RESAS(リーサス)」を、より使いやすくして組み込むことを検討している。

そして住民が日々「あったらいいな」と思うアプリケーションを、中学生でも開発し販売できるようなDMP(デジタルマーケットプレイス)をDVP上に設けて連動させようとしている。

 

 

これまで書いてきたように、筆者はテクノロジーが市民の方を向いたものとなっているか、企業や管理者の方を向いたものになっていないかに、特に注意を払っている。そんな中で、その土地に暮らす人びとの目線を大切にし、かつ関係人口増加や未来の住民となる可能性を広げるシステムがここまでデザインされたものを、筆者は他に知らない。

手前味噌ではあるが、IBM東京電機大学のこの取り組みには大きな可能性を感じている。詳しくは下記の記事をご覧いただきたい。

参考: 「自治体のDXを促進する地域課題の抽出、解決、運用のサイクルを支えるデータ流通プラットフォームの取り組み紹介」レポート

 

 

 

■ パートナーシップで目標を達成するために

3回にわたり先進テクノロジーが実現すべきビジネスを考察してきた。

そこから見えてきたのは、DXによりデジタルデータが一層その価値を高めていく中で、経済格差解消と地球環境悪化を防ぐための実践が、ビジネスの進め方と直結していること(直結していなければ市場からの退場を突きつけられること)であった。そして企業のデータ統治モデルが、地域や国家の統治モデルと強く結びついていく姿だった。

 

このデータやアルゴリズムを基盤としたAIの時代への変革を、ディストピア的な世界への始まりと感じつつもその流れに身を委ねるのか、あるいはこれまで解決できずにいた社会課題解決への扉が開き、市民社会と個人の生活をより良いものとするためのビジネスが栄える時代の始まりと認識し、積極的にその流れに関わっていくのか。

このシリーズをきっかけに、「目標17: パートナーシップで目標を達成しよう」という呼びかけに応え、共に社会課題解決に取り組む仲間が見つかれば冥利に尽きる。

 


ABOUT THE AUTHOR:
八木橋パチ(やぎはしぱち)

日本アイ・ビー・エムにて先進テクノロジーの社会実装を推進するコラボレーション・エナジャイザー。<#混ぜなきゃ危険>をキーワードに、人や組織をつなぎ混ぜ合わしている。
運用サイト: AI Applications Blog

 

 

某サイトに寄稿したものの、ボツになってしまいました…。そんなわけで、いつもとは違うトーンになっております。

Happy Collaboration!